古書道楽の最近のブログ記事

翻訳詩集

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5年前に同じタイトルの記事を書いたことがあるので、その続きといった感じで。

まだ「本をつくる」なんてことを考えていなかった頃、「本を読む」というよりも「本を集める」ことに熱中した時期がありました。集めると言っても、金も置く場所もないし、何でもかんでもというわけにはいかないので、かなり限定された範囲でのはなしです。

古い語学書、植物民俗誌関係、書物に関する本、そして外国文学の翻訳書がその対象でした。

翻訳書で集中して集めたのがシュティフターとシュトルムの本。出版されたものすべてとは言えませんが、それでもかなりの数になります。最近はゆっくりと読む時間もないのが残念。

翻訳書を集めると、同じ作品を読み比べてみます。もとが一緒なのに翻訳の数だけ違いがあり、それによって受ける印象が違うのはおもしろいこと。良し悪しを評する資格はないので、ただ単に愉しむという姿勢で。

ヘッセの詩文集『放浪』やギッシングの『ヘンリ・ライクロフト』等を読み比べの資料としてつくった記憶がありますが、手元に残っていないのが残念(書物の方はいまもあるので、やろうと思えばできなくもないのですが)。

さて、こんな中で実際に手製本に仕立てたのがシュトルムの翻訳詩集です。

storm.jpg手製本を始めたばかりの頃に一度つくったものを、今年の春に新しいカタチで仕立ててみました。

むかし作ったのは16ページの本当にシンプルな冊子でした。

表紙を含めて16ページなので、本文が見開き7面、ここに7つの翻訳を収めました。

その後新しい翻訳を見つけたので全部で8つになり、ページの構成を変更すると同時に、なにか「手製本らしさ」を盛り込みたいなと。

写真では天の部分が青、赤に染めたかのように見えます。また小口は白と青、赤がストライプ状に。どういうことかというと、もともと本文は20ページしかないのです。それをそのまま綴じてもボリューム感もないし、おもしろくもない。なので、本文を片面にのみ印刷して、蝋引きしました。

紙にろうそくの蝋を染みこませると、半透明になります。両面に印刷したものを半透明にしたのでは読みにくいだけなので、片面のみ印刷するのがポイント。インクジェットプリンターで印刷したものは蝋引きできます。

半透明になったものを間に色紙を挟んだ状態で3枚一組の折丁(本来なら12ページ分になりますが、一枚は色紙で残り2枚も片面印刷なので、実質は4ページなのです)をつくり、糸でかがって製本。

storm2.jpgナカミはこんな感じ。写真では分かりにくいかもしれませんが、開いた本文が青い色紙と重なっているので水色っぽく見えます。

今回のは文庫本サイズです。

ゆっくりと、じっくりと読めるようにしたかったので、このくらいがちょうど良いかなと思います。

文字サイズも大きめにして、窮屈にならないくらいにレイアウトしたつもり。

8つの翻訳と最後に出典一覧、そしてドイツ語の原文をいれたらちょうど良い具合に収まりました。

この翻訳詩集はシュトルムの「ヒヤシンス」を集めたものですが、これとは別にいくつか試みがあります。シュトルムの他の詩でもつくろうかと。こちらは「みずうみ」にあるものなので、詩集として翻訳されたものだけでなく、「みずうみ」の翻訳書からも集めることができます。その結果一つの詩に対して28通りの訳が集まりました。今の段階では「はん・ぶんこ」サイズのシンプルなものなのですが、これを文庫本で同じ体裁にしたら相当なボリュームになりそうです。やってみたい気もするし、手間を考えるとちょっとという部分もあるし・・・悩むところです。

古書道楽

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まだ自分で本を作るなんてことを考えていなかった頃、本を読むことよりも集めることが趣味みたいな感じでした。週末はほぼ決まって古書店巡り、いつも収穫があったわけでは無いけれども、とにかく見て回るのが愉しかった。

もちろん何でもかんでもというわけにはいかないので、ある程度狭い範囲での蒐集です。

ひとつはシュティフターやシュトルムの翻訳書。これはもうコレクションと言ってもいいくらいかもしれません。いまネットで古書を買い集めることもできるけれども、ここにあるものすべてを探し出せるかと言ったらたぶん無理だろうなと思います。これらの本を集めていたのは1990年代でしたが、古書店の棚を注意深く探せばある程度は見つけることができた最後のチャンスだったかもしれません。その後はそれほど真剣に探すこともなくなったし、気づかないだけかもしれませんが、外文の翻訳書は滅多に見かけなくなりました。

翻訳書の他、わりと古めの語学書も集めていました。集めただけできるようになったかというと、・・・・・・なので、手元にあるだけで満足といった部類のモノです。最近の会話が中心の教材には全然興味がなくて、古典的なスタイルの本ばかり。でも、今の教材にはないようなしっかりした感じがあります。いまの教材は確かに興味を持たせるような工夫を施してはあるけれども、私はあんまり好きではないのです。まぁ、好みの問題でしょうけど。

語学書を集めているのは、外国語で書かれた書物を読みたいから。そんなわけで、書棚には洋書も結構たくさんあります。しかも50年から150年ぐらい前の古書ばかり。これは国内の古書店で購入したものよりもネットで購入したものの方が多いかもしれません。外文の翻訳書を自分で歩いて探し回ったのとは対照的に、こちらはネットで検索。現実問題としてこちらの方が早くて確実ですし、便利な時代です。

洋古書のナカミはというと、これもまた偏っていて、あまり一般的でないものばかりです。普通に生活する上で、古い洋書が必要なわけがないし、それが書棚一つ分ぐらいあるなんて、すでに「普通」ではないですね。

一番多いのが香草関係です。その始まりは1994年に3月に購入した M.Grieve の "A Modern Herbal" という二巻本。1931年に出版されたもので、手元のモノが初版本かどうかははっきりしませんが、古い版であることは確かです。この本に挟んであった広告が気になって、数年後に入手したのが C.F.Leyel の "The Magic of Herbs"(1926) です。ハーブのフォークロア的な側面に興味があったので、この本はどうしても欲しくなり、ネットで取り寄せました。

C.F.Leyel は他に、"Herbal Delights"、"Compassionate Herbs"、"Elixir of LIfe"、"Hearts-ease"、"Green Medicine"、"Cinquefoil" といった本があります。

そしてもう一人、Eleanour Sinclair Rohde の本も。なかでも "A Garden of Herbs" は特別な一冊です。なぜ特別かというと、この本の中に著者 Rohde の自筆やタイプされた手紙が数点挟んであったから。もちろん本の内容も素敵なのです。他にも古い園芸書、本草書に関する本や文学との関わりに関する本もあって、興味の対象が重なるのです。個々の書物については、また別の機会にでも書きたいと思います。

園芸繋がりで Jekyll の本も、といっても手元にあるのは "Wood and Garden" だけですが。1899年のもので、綴じが壊れてしまっているので、ちょっと使いにくい。直そうと思えばできるだろうけど、しばらくはこのままにしておくつもりです。オリジナルの本はないけれども、Jekyll の "Children and Gardens" はアーカイブスサイトで書物のスキャンデータをみつけたので、はん・ぶんこの本に仕立ててみました。良い感じです。

ハーブだけでなく、イギリスの自然を言葉でスケッチしたような文筆家がいます。 Richard Jefferies です。岩波文庫の『野外にて』がきっかけで、英文を確認してみたくなり、書物を集めるようになりました。"The Open Air"のほか、"Wild Life in a Southern County"、"The Life of the Fields" 等々。自然描写のなかで、あるいは人々の生活を描く中でふつうにハーブが出てくるのが魅力。ハーブや野の花が出てくるページを使って押花帖みたいなものを作ってみたいと考えています。

それから植物図鑑。19世紀後半のモノだと思います。全6巻で相当なボリュームですが、植物図譜がときどきプレートに入って売られていることがあります。この本、植物学的な記述もありますが、それ以外のことがいろいろ書いてあるのがおもしろいところ。どのような使い方があったのか、古詩の引用があったり、民俗誌的な記述があったり、読み物としても魅力があります。

図版が美しいモノと言えば、花言葉の本が数冊。カラーの石版印刷がとてもきれいなのです。その中の一冊はスキャンしてミニチュア本を作ったり、封筒などのステーショナリーに加工したりしてみました。花言葉の本の中に、Greenaway の本もあります。初版本らしいのですが、そうでなくても美しさは変わりありません。

そして最後になってしまいましたが、主に1880年代に出版された植物民俗誌関係の本。英語だと "Plant-lore & Garden-craft of Shakespeare"、"Plant Lore, Legends and Lyrics"、"Flowers and Flower Lore"、"The Folklore of Plants"など。 他に独逸の古書でも同様のモノが数冊。

サイトのトップページある四つ葉のクローバーの画像はドイツの古書店から届いた植物民俗誌の本です。この本のこのページにクローバーが挟んであったのです。本そのものは100年以上前のものです。いつ誰が挟んだ物か分かりませんが、いまここにこの本がある、それだけでも素敵なことのように思います。

これらの書物も電子化してしまえば、スペースもとらずに、どこにでも持ち歩くことができるのでしょうが、何でもかんでもデジタル化されるのは素っ気ない感じがします。

古い書物を眺めながら、カタチや重さ、匂いがある「書物」にこだわりたいという気持ちを新たにしました。

森の小径

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手製本とは関係ない話題ですが・・・・・・

このサイト(ブログ)のドメインは、"waldsteig.net"です。

「小さな本工房」だとか、「手製本」、「はん・ぶんこ」とか、わかりやすいのにすればいいのに、って思うこともありますが、手製本を始めるずっと前に登録してあったので、そのまま使っています。

で、"waldsteig"というのは何かと言いますと、独逸語で「森の小径」という意味です。私の一番のお気に入り作家、Adalbert Stifter(1805--68)の作品名です。

私がシュティフターを知ったのは、1994年の7月31日、つまりちょうど20年前の今日でした。

当時、ドイツ文学(特にシュトルム)の翻訳書を蒐集していて、あちこちの古書店を歩きまわっていました。普段は土曜日ぐらいしか古書店巡りができなかったのですが、たまたま夏休みをとっていたので、普段行かないような所で立ち寄った店で偶然見つけたのが、山室静訳の『森の小径』(沖積社)だったのです。

本の帯に書かれた解説に惹かれて買い求め、その日の夜のうちに読み終えてしまい、翌日には岩波文庫の『水晶・他三編』を買いに神保町の書店まで出かけました。

帯に書いてあった文の一部です。

そして彼の作品には、天才の華麗や雄渾や、奔放な飛躍はない。彼が好んで描いたのは、言わば、野の花のような、ささやかで素朴な、いくらか少年めき、牧歌めいた小世界であり、植物めいてしずかな魂の、徐々として自立的な形成と成熟であった。

もともと、シュトルムの翻訳書を蒐集していて、いまも手元に90冊ぐらいあるのですが、それ以降はシュティフターの翻訳書を集めることに夢中になり、数年間はあちこちの古書店で探しまわりました。いまならネットで簡単に探せるけれども、自分の足で歩いて集めたので、それぞれの本に思い出があります。ネット社会が便利なのは否定しませんが、なんだか楽しみを奪われてしまっているようで、ちょっと寂しいものがあります。

古書を探してみると、割と簡単に見つかる本もあるし、逆になかなかお目にかかれないような本もあって、それこそ運の良し悪しもあるだろうし、運命的ともいえる出会いもあったり。それだけであれこれ語れそうな気がします。

最初に読んだ『森の小径』は習作集の中の作品、そして『水晶』は「石さまざま」のなかの一編ですが、いくつか作品に接するうちに、どうしても『晩夏』を手に入れたい、読んでみたいという思いが強まって、しばらくはこの本ばかり探し歩いていました。で、この年の12月28日に神保町の書店でようやく見つけることができました。

帰省のための電車代だったお金は『晩夏』ともう一冊(『晩夏』の一部を対訳にした教材です)に化けてしまいました。そんなわけで、帰省せずに、年末の三日ぐらいは『晩夏』の世界に浸り、その後現実に戻るのにちょっと苦労したくらいです。幸い年始の休みが残っていたので、なんとかなりましたが。

『石さまざま』の序文や、『晩夏』の中で述べられている言葉は、少なからず影響をうけています。一時期、『晩夏』を毎日電車の中で読んでいて、元々の表紙が取れてしまい、布で装幀し直したくらいです(このときは自分で製本をするようになっていました)。

なにかを学ぶこと、なにかを作ることについても、どこかしらつながってくるものがあって、その部分を大切にしていきたいな、と思います。

作品の中の珠玉の言葉をあつめた小さな本、あるいは、「はん・ぶんこ」サイズの習作集や彩石集なども作ってみたいな、と。

読みたい本

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またもや間が開いてしまいました。

先月、サーバーの引っ越しをしました。以前のプランのまま継続するよりも安くなる計算だったので、ちょうど更新の時期に合わせて。そのためサイトの様子がちょっと変わりました。

以前のブログ記事をいったん全部コピーしてFileMakerで整理することにしました。旧ブログの記事はそのまま引き継いでいますが、画像はなくなっています。

さて、今日から12月。

今月のマーケットの出店予定です。
12月15日、雑司ヶ谷鬼子母神の手創り市
12月22日、千駄木養源寺の&SCENE手創り市

鬼子母神の手創り市は2010年12月が初出店だったので、丸3年、いよいよ4年目に突入です。はじめの頃は毎回徹夜で準備していましたが、いまは逆に十分に休むようにしています。

商品や作品をせっせと作ってどんどん売るというのも一つの考え方ではあるのですが、何が売れるのか分からないというのもあるし、売るための製作したものは単価がいくらで、とか、時給換算でこのくらい、といったように金銭的な計算が先になってしまうような気がして。

今月は新作を準備するとすでにあちこちで宣言(出展申込書にもそう書いた)しているので、約束は守らなければ・・・

先日、拙ブログをご覧になったという方が糸かがり豆ノートの製作体験にお越しになりました。こんなブログでも読者がいるとは、ちょっと驚きです。手製本のこと、作り方や道具のことなど、何かしら役に立つようなことを少しでもご案内できるように心がけていきたいと思います。

さて、寒くなってきたので作業スペースを炬燵に移しました。これまでは机の上でやっていたのですが、ここには暖房がなく、寒くて作業どころではないし、エアコンは頭がぼぅっとするし。

で、机から炬燵に移ったら、環境が変わってしまって・・・

作業机として使っているライティングデスクは高さが180センチあって、天板の上は書棚になっています。そこにはシュティフターの翻訳作品が棚一列に並んでいます。あとは外国語訳の百人一首の資料があったり。

机の近くの書棚にはハーブや植物民俗誌、ジェフリーズの著作集などの洋古書が。これらの書物がちょっと遠くなってしまい、取り出して読むのがちょっと億劫になってきました。

炬燵の横になる棚には古い語学書やシュトルムの翻訳書、ギッシングの「ヘンリ・ライクロフト」の数種類の翻訳、ヘッセの「放浪」、シュナックの蝶の本など。
昭和33年~34年に刊行された『シュトルム選集』(全8冊)の月報の読者欄に「日曜日など私の小さな室で炬燵に入りながら読むシュトルムの作品は私にと手一番愉しい時間であります」なんて書いてあって、うんうんと頷いてしまったり。

小さな本工房にある書物は数年前に買い集めたものです。最近は新刊書も古書もあまり買っていないのでそんなに増えてはいません。10年前、20年前からずっと手元にあるものがほとんど、その間何度か読み返したものもあるし、棚に収まっただけで満足してしまった書物も少なくありません。

手元にあっても、読まれることがない書物。これは忙しくて手に取る暇がないというよりも、力不足によるものであることの方が多いのです。というのは、英語やドイツ語で書かれていて、十分な読解力がないから。

これらは読みたいけれども(今は)読めない本。そして今は読めないけれども、いつかは読んでみたい本なのです。

そして、小さな本工房が作ろうとしているものは、読みたい本を読めるようになるための本、なんだか訳が分からない表現になってしまいましたが、いつか読んでみたい外国語の書物を読むための本。

ハーブの本を読むための語彙集とか、植物名対照表とか。

誰が必要としているのかって、私が欲しいから作る、それだけかも。

古書のなかに

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一昨日は雑司ヶ谷鬼子母神の手創り市でした。前夜まで雨降りで、天気がどうなるかと心配しましたが、なんとか無事に一日を過ごすことができました。

8月の千駄木、9月の雑司ヶ谷が雨で中止になってしまったため、久々の出展となりました。その割には新作があるわけでもなく、どちらかというと在庫一掃セールみたいな・・・

入り口近くだったこともあり、たくさんの人が通る絶好のロケーションなのに、いつも同様商売っ気なし。おしゃべりばかりして過ごしていました。

お客さんに、「買わなくてもいいから、次のお客さんが来るまでのあいだ立ち読みでも」なんて声をかけて。だれかが店の前に立っていると自然に人が立ち止まってくれます。なので小さな本工房の前には人だかりが。それだけ見たら、小さな本工房は結構な人気店です。人が集まった分だけ売れれば言うことなしなのですが、案外いい加減なモノです。作り手というのは商売には向かないことになっているのです。

さて、前回の記事は瓶の中の植物でしたが、今回は古書の中の植物です。

clover.jpg小さな本工房の名刺をご覧になった方はお気づきかと思いますが、背景画像に古書と四つ葉のクローバーの写真を使っています。

いかにも素材集かなにかにありそうな写真ですが、実は手元にある古書の写真です。

この写真は名刺のモノとは別に新たに撮りました。

この書物、1898年にドイツで出版された植物民俗誌に関する本で、洋古書サイトで注文し、ドイツの書店から送ってもらったものです。

書物が届いたときにページをめくってみたら、このページにこのクローバーが挟んでありました。摘んですぐに書物に挟んでおいたらしく、左側のページにうっすらとクローバーの跡が残っています。

同じ本にはもう一つクローバーが挟んでありました。ほかのページにも、押し花、押し葉そのものはなくなっていますが、挟んであった形跡があります。

タイトルのページには、Emil Amelong とペンで記されていました。以前の持ち主なのでしょうか。だとすると、このクローバーを挟んだのはEmilさんなのか・・・ いろいろと空想してしまいます。

串田孫一さんの文章に、四つ葉のクローバーの話が出てきます。→爽やかな祈り

このクローバー、いつ、誰が挟んだものかはわかりません。

そして、ドイツの古書店の人が日本に送るときに気づいていたのかどうかもわかりませんが、そのまの状態で届けてくれたことがちょっとうれしくて。

なので、名刺やほかのアイテムに使っています。お客さんとおしゃべりをするときに、こんな話もちょっとしたりします。

小さな本工房は書物をつくるのが仕事なので、身近に古い書物がありますが、この本はちょっと特別な一冊です。

古書道楽

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作業机と横の書棚をすこし片付けました。

なにせ、机ひとつの「小さな」本工房なので、きちんと整理整頓しておかないといけないのですが、実情は......いろいろなものがごちゃごちゃ状態です。

ついでに、書棚を動かして、中の書物を並べ替えたり、他の棚のものと入れ替えたり。

こういった作業って、大体思うようにはいかないものですね、さっさと棚に収めれば良いのに、手にとって眺めてしまったり。

高さが180センチと150センチの書棚のほかに、90センチの棚が4つ、それから作業机(机の上が書棚になっているライティングデスクです)にも書物があるのですが、それでも棚から溢れているありさま。この際、いらないものを仕分けしようかと思ったのですが。

作業机の上の棚に並んでいるのは大好きな作家、シュティフターの翻訳書です。これだけで80センチ分のスペースをとっています。これは「聖域」なので、仕分けの対象にはなりません。

机の横にあるガラス戸つきのスチール棚は全部で5段。今まで一番下の段には日本語と韓国語の大型の辞書があって、のこりの4段は大部分が洋古書でした。植物図鑑、植物民俗誌関係、花言葉、ハーブ、園芸書、それからイギリスのナチュラリスト、リチャード・ジェフリーズの著作集等です。最近のものはほとんどなく、19世紀後半から20世紀前半ごろのものです。

この棚は一番下にある辞書類を全部外に出して、別の本を収めることにしました。

で、代わりに並ぶことになったのは、日本語で書かれたハーブ関係の本と、以前刊行されていた「HERB」という雑誌です。

この雑誌、創刊号から休刊に至るまで全冊揃っています。1990年から1998年まで発売時に購入したもので、いろいろと思い出深いものです。今はアロマ系がはやりですが、まだそんなに注目されていなかった頃です。ちなみに、ハーブ歴は製本歴よりも長いのです。

別の棚にあるのは、シュトルムコレクションや串田孫一さんの本、外国語の教材と辞書等々。

そんなわけで、棚から出してはみたものの、収める場所がちょっと変わっただけで、結局仕分けまではできませんでした。

本の整理をしていて、なかなか作業が進まない理由は、本を見てしまうから、なんだと思います。

「読む」のではなく、「見る」のです。印刷されたページの文字の大きさや余白の取り方、活字の雰囲気、紙の質感、製本の仕方など。文庫本でも活字や余白のバランスなどでだいぶ雰囲気が違うのが不思議です。

ときどき癖がある書体で本文を組んである本がありますが、なぜこの書体なのか解らない、あるいは行間が狭すぎたり、広くて間延びしていたり、そんなところに気をとられて、内容に集中できないこともあります。

そういった本は、入手困難な古書でなければ、仕分けの対象になることが多いような気がします。

本を作るとき、もし印刷する内容を自分でレイアウトするのであれば、なるべくシンプルに、内容そのものに専念できるようにすべきと考えています。特に文字が中心で、「読む」ための本を目指すならば、オーソドックスな書体で十分だと。

洋古書の中にはドイツの本もあります。むかしの本なので、フラクトゥール書体で印刷されていて、いかにも獨逸って感じがします。これもよく見るとみんな同じでなかったり、調べてみるとおもしろいかもしれません。

それから、古書ならではの匂いとか手触りとか、書き込みや栞として挟んだであろう紙切れに前の所有者に想いを馳せたり、そんな愉しみも。

ひとまず棚に収まった書物(の背表紙)を眺めて、ひとりにやにや。ちょっと大げさですが、至福の時です。

書物には「読む」愉しみ、「見る」愉しみ、「眺める」愉しみがあるようです。

で、「作る」愉しみは......

書物のこと

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対訳百人一首豆本の第二集を制作中。先に作った第一集は手元にある本と図書館から借りてきた本に基づいているが今つくっているのはネット上にあるテキストをもとに日本語と対訳形式に編集する。

どうしても「印刷された書物」がないと不安になってしまう。ネットで情報を得ることは手軽だし便利なのは認めるが、安易に扱えるというのは逆に心許ない気がする。

印刷された書物でなければいけないという理由はないのだが、たぶん、自分がアナログ人間だからなのだろう。でなければ、デジタル書籍をわざわざ印刷して製本するなんてことはしないだろう。

本を作ることは、昔から漠然と考えていたことだった。でも、それらしいものを作るようになったのはそんなに昔のことではない。

さっき書棚の本を何冊か取り出して眺めてみた。1930年代ごろのハーブの本、そういえば最近開いていなかった。いつ挟んだのか忘れてしまったが、ウッドラフというハーブの葉っぱが出て来た。そういえば他にもマージョラムやセージ、タイムなんかをあちこちに挟んだ記憶がある。四葉のクローバーはドイツから取り寄せた古書に前の持ち主が挟んだものだった。

書棚から取り出して、頁をめくると古書のにおいがする。本によって紙の手触りやにおいが違う。本のにおいなんて普段考えることはないが、実際に違いはある。実際、洋書と和書では違うし、中国の書物には中国のにおいが、ロシアの書物にもロシアのにおいがする。
書店に入ったときに最初に感じるのも書物のにおいなのかも知れない。

新刊書にはあまり興味がない。毎週のように丸善に寄ってあれこれ眺めて、時々購入するのだが、ずっと手元に置いておく本は案外少ないかも知れない。蔵書の整理をするとしても、結局片付くのは新刊書籍ばかり。古書は増えることはあっても減ることはない。
第一、引き取ってもらおうにも買い取ってくれる見込みはほとんどない。そのくらい一般ウケしない本ばかりなのだ。

よほどのことがない限り手放す気はないのだが、それにしても変わったコレクションだと思う。大体、専門家でもないのに100年以上も前のヨーロッパの本があること自体フツウではない。読める読めないは別として、中身もかなり偏っているし。

さっき取り出して眺めていたハーブの本はちょっと特別な、思い入れのあるもの。ハーブの世界にのめり込んで、和書だけでは満足できず本場の資料を集めようとせっせとネットで買い集めたもの。少しずつ増やしていったのだが、これだけの本を一度に集めようと思っても財政的に無理だろう。これらの書物を無駄にしないためにも、いかす方法を考えなければならない。

久々に手にした書物を眺めながら、いまなぜ本を作っているのか、手作りの本の意味は何か、そしてデジタルでは味わうことができない、「もの」としての書物について考えた。

手元に書物、とくに古い書物がなかったら、小さな本工房の活動もなかったのではないか、と思う。

本工房の主人たち

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きのうは毎週恒例の古書店巡り。古書会館で週末に開催される古書展と神保町界隈をあちこち彷徨う。

古書展で見つけた本。

季刊「銀花」のなかから2冊、
第98号(1994年)、特集は「本工房の主人たち」
第102号(1995年)、特集は「串田孫一の世界」

この雑誌はこれまであまり気にかけていなかったのだが、とても上質な読み物が満載。俗っぽくないのがいいところ。どの号も気になって、大人買いしてしまいそうなところだが、懐具合を考えて、どうしても逃すことができない上の2冊だけを購入した。

まずは「本工房の主人たち」
読書が好き、本が大好きな方々に、この度はとびきりの企画という見出しから始まって手製本を手がける作家さんと作品の紹介が続く。

プライベートプレス、とてもいい響きだ。商業出版とは別の、細々と、でもこだわりがぎゅっと詰まった少数部数の本。「小さな本工房」もそうした本を創る工房にしたいと思う。

それにしても、手製本が美しい。まさに「限定本」、「特装本」と呼ぶにふさわしい。実用的というよりも、芸術品のようなたたずまい。

もう一冊は串田孫一さんの世界を紹介した特集。
この特集の時点で、世に出た串田さんの本は376冊あるとのこと。手元にあるのはほんの数冊だけだが、署名本も何冊かあって満足。1ページ程度の短い文章もいいし、2、3ページぐらいのエッセイも好き。
まさに「豆本にしたい作品」がたくさん。
むかし「雑木林のモーツァルト」というエッセイを16ページの小さな本に仕立てた。手のひらに収まるサイズで、文字は普通の文庫本よりも大きめに、少しゆったりと組んである。
他の文章も小さな本に仕立てて、持ち歩きたい。

今日は、先週の手創り市で注文を受けた本の装幀を行った。依頼主から表紙用の布を受けとり、早速裏打ちして表紙をつくる。中身は前に創ってあったので、表紙をつけるだけだが、最後の最後まで気が抜けない。

素朴な感じのリネンクロスが中身と良い具合に調和している。一晩プレスして完成を待つだけ。

創ったものをマーケットで売るのではなく、装幀の希望をお聞きして、それに添って本を仕立てる、まさに「私だけの本」、「世界に一冊だけの本」ができあがる。

完成した作品を商品として並べるのではなく、サンプルとして見て頂いて、希望に添った装幀を施す、今後はこの方式でマーケットに出店できたらと思う。

翻訳詩・集

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分かりにくいかも知れないが、「翻訳+詩集」ではなく、「(翻訳+詩)+集」という意味あい。

むかし外国文学の翻訳書を集中的に蒐集した時期がある。特定の作家では、シュティフターであり、シュトルムであり、アイヒェンドルフなど。

その作家のものなら何でもというのではなく、一作品に限定して集めたものもある。ギッシングの『ヘンリ・ライクロフト』やヘッセの『ヴァンデルング(放浪)』がこれにあたる。

そんななかで自分でも呆れてしまうくらいなのが「シュトルム・コレクション」

以前、シュトルムの詩「ヒヤシンス」の翻訳を読み比べることができる豆本版翻訳詩集を作ったことがある。全部で7通りの翻訳を一冊にまとめたもの。

初めて見た人は、最初「?(はてな)」と思うが、状況が分かれば、「!(なるほど)」となるしくみ。
それよりも以前に、「みずうみ(Immensee)」の中にある一篇の詩を読み比べるために、この部分の翻訳を集めてみたことがある。それが途中になっていたので、週末に作業に取りかかった。
入力して印刷したものが残ってはいるのだが、デジタルデータが見当たらず、やむなく全部を最初から入力することに。

書棚から一冊一冊取り出し、書見台に本をのせて入力する。古いものは大正時代、それから昭和20年代のものが多い。もともとのテキストにできるだけ忠実に、旧仮名遣い、舊漢字で入力する。案外手間がかかってしまった。

昼すぎから始めて、夕方にはなんとか入力作業が完成、現段階では27通りの翻訳が集まった。
同じ訳者による翻訳でも、版によって違うこともあるので、それを加えたらもう少し増えそうな気がする。A7サイズの豆本用に仕立て、ミニ5穴のシステム手帳に綴じる。

これから原文との照合作業をしなければならないので、今の段階では仮製本というわけ。この作業は、暫く間を置いてからでも良さそう。

さて、古い翻訳を眺めていると、昔のものほど文語調で訳文に凝っているのが分かる。五七調や七五調になっているものも多い。

原文は一つなのに、訳によってこれほどまで違うものかと驚くばかり。
読み比べて見ると、なかなかおもしろい。

奇跡的偶然

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土曜日恒例(?)の神保町古書店巡り。

店の入り口に100円均一本が無造作においてある。ときどき掘り出し物に出会うことがあるので、チェックは怠らない。

そんな100円均一本の段ボール箱のなかに、気になる一冊を発見。緑色の箱に薄い青の帯、この組み合わせは......

緑色の箱は「集英社版世界文学全集」。帯には作家の名前が書いてあるのだが、この色はもしやシュティフターでは?

ちょうど書店の店員がごそごそ本を動かしていたところ、この本を見たのはほんの1、2秒。

そのあと、別の本をごっそり上にのせてしまったので、この瞬間にこの場所にいなかったら絶対に見逃していた。

そんな意味で、大げさな言い方をすれば、奇跡的な偶然だと思う。あるいは、超人的眼力?

これは本の神さまの導きに違いない。

というわけで、シュティフターの『晩夏』1冊、お買い上げ。

この本は既に手元にある(しかも予備も)。でも、100円なら逃がす理由はない。

なぜこれほどまでにこだわるのか、『晩夏』は「無人島に一冊だけ持って行くとしたら」に選んだ本でもあるし(これは高尚な理由)、最初に数ヶ月間探し求めて、初めて見つけた時の1冊が1万円だった(それがちょっと悔しい)というちょっと俗っぽい理由もある。

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