2014年10月アーカイブ

手製本の原点

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すでに終わってしまいましたが、10月18日(土)・19日(日)に「工房からの風」に出展しました。

事前にお知らせすることができず、大変申し訳ございませんでした。

実は、開催前に途中まで記事を書いていたのですが、文章がうまくまとまらず、また、直前まで(初日前夜は寝ていません)作業に追われていて、結局そのままになってしまいました。

一年前、モノ作り仲間から紹介されて見に行き、いいなぁと思ったのですが、そのときは自分が出展者としてあの場にいるなんてことは考えられませんでした。出展している作家さんの作品クオリティがとても高いし、ひとりであれだけの規模の展示をするなんて無理だろうな、と。

ただ、あの「場」の雰囲気がとても気に入りました。窮屈な感じがしないし、会場内に木々があって花壇があって、そのなかでわりと自由な感じで展示している。

この空間で書物を展示できたら楽しいかも・・・。そんな想いがだんだん強まってきて、2月に応募資料を作成して大雪の日に投函しました。そして選考結果の通知を受け取った日から出展当日まで、いろいろなことを想い、考え、そして作る日々が続きました。

何を想い、何を考えたのか・・・ひとつひとつ整理しようにも簡単にまとまりませんし、それを言葉にできるかどうかも分かりません。

そんな簡単に答えが見いだせるものなのかも分からないし、その答えが果たして正しいのかだって自信がない。

工芸展で手製本、というと、立派な一点物のルリユール作品を想像するかもしれません。

私の手元には100年前、150年ぐらい前のヨーロッパの書物が何点かあります。王侯貴族の書斎にあるような立派なモノではないけれども、それなりに丁寧に仕立てられていて、書物としては美術品のように美しい。

革で装幀し、金箔で箔押しして、中身は活版印刷、鮮やかなクロモリトグラフの挿絵、そんな書物もありますが、それは気軽に持ち歩くことができて、いつでもどこでも読めるようなモノではありません。立派な書棚に並んでいれば、それはそれで立派なインテリアにはなるかもしれませんが、本来そういったモノではありませんし(うちの古書はガラス戸が付いたスチール棚に収められて、さらに滅多に取り出して読むこともないので、書物に対して申し訳ないくらいなのですが)。

そもそも手製本を始めたきっかけというのがいくつかあって、そのどれをとっても、美術工芸品のようなモノには結びつかないのです。

まず一つ目、それは「実用的であること」でした。何が実用的かは人それぞれ違うのでしょうが、私の場合、外国語の勉強のための例文集、単語集、文法便覧のようなものから始まりました。電車の中やちょっとした隙間時間に気軽に手にとって、ほんの数分でも眺められるようなモノ、あるいはちょっと確認するための便覧などです。

二つ目は、書物としての使い勝手の良さ。いま一般的な書籍は背の部分を糊で固めて綴じたものがほとんどで、平らに開くことはありません。文庫本のように表紙がやわらかいのであれば、それでも良いのでしょうが、開いた状態を保つために押さえが必要なのは残念なこと。単純に読むことだけに専念するのなら不便とは感じなくても、書き写したり、本を参照しながら何かを作るようなときはかなり不自由です。なので、基本的にどのページも平らに開くように糸かがり製本にしています。

三つ目は、ムダを省くことです。「はん・ぶんこ」の本はA4用紙を8等分した大きさです。文庫本の半分だから「はん・ぶんこ」と呼んでいます。単純にA4用紙を4つに切り分け、折って綴じただけのモノで、基本的には化粧裁ちはしません。天地、小口をきれいに揃えることを化粧裁ちといいますが、それによってゴミが出るよりは、その手間を省くこと、ゴミを出さないことの方を選びます。

また、背を糊で固めることもしません。通常は、かがり終えたら背を糊で固めて、寒冷紗で補強して、その上に表紙をつけるのですが、背表紙があると開きにくくなるので、敢えて背表紙はつけないスタイルに。糊を使わない理由はもう一つあって、不要になったときに糸を切れば本文をバラバラにすることができるということ。これによって、本文紙の再利用ができます。モノを作る過程において、なるべくゴミが出ないようにしたいのです。

四つ目は、最初から意識していたわけではありませんが、機械製本との差別化です。大量に作られる無線綴じの本に対する反抗心なのかもしれません。満足できないところを一つ一つ取り除き、自分なりに工夫してきた結果、機械で製本されたモノが必ずしも優れているとは言えないという結論に至りました。それは二つ目、三つ目の理由と重なります。

それから五つ目、電子書籍に対して「紙の書物」へのこだわりです。紙の本を切ってスキャンしてデジタル化する、そんな流れがある中、逆行するようですが、デジタル化されたデータを紙の本に戻すことを試みています。著作権が切れた古い書物のデータを、PCのモニターで見るのではなく、印刷して紙媒体で読みたい。でも、ただ印刷しただけでは使い勝手が良くないので、キチンと製本して、普通に書物として読める状態にしたい、それも理由の一つです。

そして六つ目、ただ本のカタチをしたモノを作るのではなく、中身があるものを作りたいということ。何も印刷されていない紙を綴じてノートを作るのはそれほど難しいことではありませんし、それなりに需要も見込めるでしょうが、せっせとノートを作るのを目指すのではなく、たとえ需要は少なくても、キチンとした「書物」を作りたいのです。

そのためには、ナカミを作る作業、テキストを編集してレイアウトして、印刷するところまで、様々な工程があり、その手間は相当なものです。でも、綴じてノートを作るだけよりも、ナカミも含めての本作りのほうが楽しいし、意味がある。

欲しいと思った本が書店や図書館にないから自分で作ってしまった、これがそもそもの始まりなので、一番大切にしなければならない部分かもしれません。また、それによって、誰かの役に立てることだってあるかと思います。

なんだかいろいろと書いてみましたが、単に本のカタチに仕立てるというのではなく、ちょっと大げさに言うと書物を創出するくらいのコトがしたいのかもしれません。

だから、例えば文庫本をハードカバーに改装するとか、なにか特別な素材で装幀し直すとか、そういったことには興味がありません。文庫本は表紙がやわらかいから使い勝手が良いのであって、ハードカバーである必要はないし、壊れたわけでもないのに表紙をつけかえたり、見た目だけ立派に仕立てるのも違うと思っています。そういった需要もあるかもしれませんが、私はべつにそうは思わない。

今回、工房からの風に出展する機会を頂き、そのなかで「手の本」が生まれました。

糸かがり「はん・ぶんこ」サイズで48ページの小さな手製本、これは特別な意味があります。

5月のギャラリー展示のとき、本展に向けてどのような展開をするのか出展者(私)も企画者も具体的なカタチを見いだせずにいた(あるいはそれぞれが違うカタチで思い描いていた?)なかで、ナカミがある書物をつくることがしたいということを伝え、その種が本展で結実したわけです。

この提案に何名もの方が文章を寄せてくださり、稲垣さんが編集し、香田さんが本文をレイアウトして、宇佐美さんが表紙をデザインしてくださいました。

受け取ったデータを印刷して製本するのが私の役目、最終的に本展直前に60冊完成させました。すべてが順調とは言えませんでしたが、苦労話を語るのは野暮というもの。

いまは無事にそれぞれの手に渡り、出展後の余韻に浸りながらページを開いていることでしょう。技術的にはまだまだかもしれませんが、丁寧に向き合ったつもりです。多少のゆがみ、汚れは手仕事の愛嬌とご理解くださいませ。

このささやかな本にも手仕事らしさが宿っています。これが紙の書物でなくてデジタルデータだったら素っ気ないと思いますが、いかがでしょうか?

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