2014年5月アーカイブ

書物がある風景

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昨日から千葉県市川市のギャラリーらふとで「風の予感 vol.1」展をやっています。

今年の秋に「工房からの風」に出展する作家のうちの5人による展覧会です。小さな本工房は今日、明日(5日)と明後日(6日)に在廊します。

今日は3人の作家さんと一緒でした。モノ作りのジャンルは異なっていても、それぞれ似たようなことを考えていたり、同じ悩みや苦労があったり、こういった機会に話ができるのはありがたいことです。

手製本の展示というのも珍しいかと思いますが、興味をもってくださる方もいらっしゃって、内心ホッとしているというか。前に書いた記事で、誰からも理解されないしごとだったらどうしようと不安があったので、手にとってご覧頂き、あれこれお話ができたのは嬉しい収穫でした。

image1.jpgギャラリーは小さな建物ですが、そのまわりにはハーブが植えられた花壇があるので、そこに洋古書をミニチュア化した豆本をそっと置いてみました。植物関係の絵本や、「妖精のアルバム」といったタイトルがついたモノなので、草むらに置かれても何の違和感もないというか。

ひとつの景色としてちょっと愉しいかなと。植物があって虫がいて、なぜかそこに小さな本があって・・・

秋の本展は野外での展覧会といった趣なので、書物がある風景を作り出せるような展示にしたいなと考えています。

image2.jpg

書物は風景を切り取ったものでもあり、書物が風景の一部でもある。

イギリスの文筆家、リチャード・ジェフリーズが描いた言葉による田園風景のスケッチのようなもの。

あるいは、庭のハーブがそのまま本に収まったような図鑑風のスクラップブック。

実りの秋にふさわしいものができるよう、丁寧に育てていきたいと思います。

理解されるしごと

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大学に入ったときから今まで書棚の数も、その中身もその時々で変化しています。

学生の頃は専攻言語の辞書やら文法書、そしてその国の文学書が大半を占めていたのですが、いま誰かがこの部屋に入ってきたら、何をやっている人なのか分からないでしょう。

仕事机の棚には愛読するシュティフターの翻訳書が棚一段分並んでいるのが壮観。そして外国語訳の百人一首の本。これで「対訳小倉百人一首」をはん・ぶんこで製本しました。

そして机のそばにあるスチール棚には19世紀から20世紀前半の植物民俗誌関係の洋古書とリチャード・ジェフリーズの原書が。別の棚にはわりと古めの語学書。会話には興味がないので、新しい教材にはあまり魅力を感じないのです。

そんな中で、ずっと変わらずにあり続けた本の一冊が、ハマトンの『知的生活』です。もちろん日本語訳ですが、大学に入ってから英語の原書も手に入れました。

高校の時に英文のテキストで「現代外国語を学ぶ学生へ」とか、「記憶力が悪いと嘆いている学生へ」、「時間が足りないと嘆いている暇な人へ」等を読みました。

最近は読み返すことはほとんどありませんが、部分的に印象に残っているところがあって、何かの折りにふと思い出したりします。

そんな中の一節

ところで、知的な人間は、必ずしも通りを歩いているすべての人間に自分のことをわかってもらいたいなどとは思わないでしょうが、誰からも自分が理解されないという意識はよくありません。知的生活というのは、時に、おそろしく孤独な生活となります。大都会に住んでいるのであるならともかく、知的生活に自らを捧げた人間というのは、他のどんな人間よりも孤独に苦しみやすいものです。誰も耳を傾けてくれる者のいない空間で、無言の星空の下で、激しい孤独感におそわれがちなのです。そのような知的生活者に、彼を理解し、見捨てず、昼となく夜となくいつでも会えるような友人――一人の友人、一人のやさしい聴き手が、たった一人でもあれば、世界は大きく変わってしまうのです。

なぜこの文章を思い出したのかというと、モノ作りの生活というのも知的生活と変わらないなと気づいたから。

ひとりモノ作りをしていると、ともすれば自己満足に終わってしまう。あるいは出来の良し悪しで一喜一憂したり、時にうぬぼれたり、失望したり(これは外国語を学習しているときに経験済み、外国語学習とモノ作りは案外共通していると思います)。

普段ひとり編集作業をしたり、製本作業をしたりしながら、愚問愚答を繰り返し、月に一二度マーケットでお客さんや他の作家さんとおしゃべりしながら過ごす。

そんななかで手製本が理解されるか、あるいは興味を持ってもらえるのか、そんな反応を知ることで世間とつながっているようなもの。モノが売れるかどうかよりも、こちらの方が大事なことです。

マーケットでお会いしたお客様から再度の依頼を頂戴したり、雑貨ではなく書物としての価値をご理解いただいたり、こうしたことがあるから続けられるのだと。

誰からも理解されないしごと――あんまり考えたくはないけれども、この一言がずっと頭の片隅に残っていて、実際のところどうなんだろうなぁ、と。

ページを切りながら

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シュティフターの「習作集」のなかに「ブリギッタ」という作品があります。

この作品は、私がシュティフターの翻訳書を蒐集し始めて間もない頃に読みました。
昭和28年に四季社から出たもので、文庫本とほぼ同じ大きさのハードカバー。1994年に入手したので、ちょうど20年前ということになります。

この本、ペーパーナイフでページを切りながら読むように製本されています。そして、私が手にしたものは、まだページが切られていない状態のものでした。

ページを切りながら読む本は、他にも何冊か手元にあったので、特に珍しいとは思わなかったのですが、雑な扱いはしたくなかったので、時間的に余裕があるときに、姿勢を正して(?)ゆっくりと読みました。そのためにわざわざペーパーナイフを買ってきて。

当時はまだ手製本を始めるまえだったので、読み手として書物と向き合うことしか考えていなかったのですが、自分で作るようになったときに、こういったものも作ってみたいと思うようになりました。

書物を作るために編集作業(これはほとんどがデジタル系の仕事)と製本作業(こちらはほとんどが手仕事)を独習したのですが、通常の書籍を作るのと同じようにレイアウトすることを最初に覚えたので、実際にやってみるとむしろ作業工程が減るし、愉しみは増えるし、却って都合が良い。

uncut.jpgなので、ゆっくりと時間をかけて読むような本は、敢えてこの体裁で仕立てることもあります。はん・ぶんこの本だと、もともとがA4用紙1枚が16ページになるので、都合が良いのです。

こういった本は、手仕事だからできることなのかもしれません。書店に並んでいるような本は天地も小口もきれいに裁ち落とされていて表面がなめらかです。一方、ページを切りながら読むような本は、小口が微妙に不揃いで、ペーパーナイフで切った後も切り口がやわらかい感じがします。

かがり終えたあとで、天地と小口を切りそろえることを化粧裁ちといいますが、私はそれが必ずしも必要だとは考えていません。美術工芸品のような上製本(見た目は立派な本)を作ろうなんて気持ちはさらさらないので、見た目よりも使い勝手が良いことの方が大事なのです。

化粧裁ちをすることで、紙の一部がゴミになってしまいますが、「はん・ぶんこ」の本は紙をまったくムダにしません。辞書のような使い方をするのでなければ、小口が多少不揃いでも全く気にならないし、手間を省いても(手を抜くわけではありません)なんら支障はない。

もし、化粧裁ちをしていないことにたいして不完全というなら、まぁ、そういう見方もあるんだろうな、という程度にしか思わない。

私が作っているモノなんて、背をのりで固めることもしないし、寒冷紗で補強することもしていない。これだって、完璧なものを作る(そんな人がどれだけいるか?)人からみたら、不完全なモノと批判されるかもしれません。

教科書通りの、あるいはお手本通りのモノを作るだけなら、それはそれで構わない。でも、絶対にこうでなければならない、とか、これではいけない、というような決めつけはあんまり意味がないのではないか、と。

むしろ、手仕事だからこそ、そういった決まりごとから自由になっても良いのではないかと。

私が提案し案内しようとしている手製本の様式は、大部分の人から見たら思い描いているモノとは違うかもしれません。でも、多くの人が思い描くであろうモノを作っても、それを展示したり、販売したりする意味はないように思うのです。

書店や図書館に並んでいるものとは「ちょっと違う」本のカタチ、こんな世界へとご案内したいなと思います。

一応ことわっておきますが、私も最初は指南書通りに作ることを覚えました。型どおりの仕事を経てからの型破りでないと、形無しになってしまう、ということをどこかで読んだ記憶があります。まったくその通りだと思います。

習作集

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4月に、糸かがり「はん・ぶんこ」ノートを大量に作りました。本当は中身がある書物をつくるのがしごとなので、何も印刷されていないノートを量産するのは乗り気では無かったのですが、ちょっと思うところがあって。

小さな本工房が思い描く「理想の空間」には「はん・ぶんこ」専用の書棚があって、そこにこのサイズの本が並んでいる。

図書館や書店に文庫本専用の書架があるように、本のサイズに合わせて作られた棚が欲しいなと思っていたところ、ある方のご厚意で、机の上にのせられるくらいの小さな書棚を作っていただきました。木製のシンプルなものですが、飾り気の無いところがお気に入り。

100種類の紙をあつめた見本帳のようなものがあったので、それで一紙一冊。扱いにくいモノ、紙らしくないモノを除いて、合計85冊です。中身があって、その表紙となると、なかなか組み合わせが難しくなるので、あえて中身はなにもないノートに。それによって、書物としての内容よりも造本のほうに注目してもらえるかな、と。

小さな本工房の手製本は、ハードカバー仕様であれソフトカバー仕様であれ、背表紙はつけない、つまりかがりの部分が見えるようになっています。

本文と表紙を別に作って、最後に合体させるのではなく、最初から表紙と本文とを一緒にかがってしまうのです。しかもかがり糸の始末は表紙に隠れるので、見た目がスマートです。製本の指南書にあるようなものとは違うし、かがったあとで糊で固めたり、寒冷紗を貼ったりといったこともしないので、見た目は弱そうに見えますが、案外酷使しても壊れることはありません。

やろうと思えば、指南書通りに上製本に仕立てることもできるのですが、そこまでして、却って使い勝手が悪い(背表紙があるとどうしても平らには開きにくくなります)ものを作る必要などないと思うのです。

いま書店に並んでいるほとんどの本は平らに開くことはありません。それが当たり前のように思われているのでしょうね。だけど、開きの悪い本というのは案外ストレスになります。

私は、他のなにかを犠牲にしてでも、機械製本にはない良さを手製本には求めたいと思っています。機械で作ったモノと同じならわざわざ作る必要はないわけで。

この点では、糸かがりで背固めをせず、また背表紙もない本(ノート)の存在意義があるはず。これを知っていただくためには、実際に見てもらうしかないし、さらに欲を言えば、実際に使ってもらうのがいちばん。だとすると、書物であるよりも、ノートの方が現実的かな、と。

連休中のギャラリー展示では、はん・ぶんこ専用の書棚に並べた状態で展示します。
書棚に収まった状態では背(かがり)の部分が見えるので、かがり糸の色と表紙の色との取り合わせもご覧いただけますし、表紙を見えるように展示したものは素材としての紙の表情をご覧頂くことができます。

もしかしたら、秋の本展ではさらに様々な素材で仕立てたものが並ぶかもしれません。紙だけでなく、布モノも含めて。市販のものだけでなく、加工も含めてオリジナルのものも。

展示されるはん・ぶんこノートが作品なのか、商品なのかいまいちよく分かりませんが、小さな本工房としては「習作集」のような意味合いもあります。

同じものを大量に作ることで、ひたすら同じ工程を繰り返す。こういった当たり前の作業と向き合うことも大事なのではないかなと。こうした作業の中で、あれこれ考えたり、効率よく、あるいは美しく仕上げるための治具を工夫したり、と。

丹精込めて一点物を作るのも愉しいし、意義がある仕事だとは思いますが、量産に対応できるということも工房活動の上では必要なこと。

一定のクオリティーを保ち、なおかつ数をこなす、ある意味当たり前のことなのですが、数をこなす機会なんてそうそうあるわけでもない。ちょうと今回の展示が良い機会だったのではないかと思います。

愛読書である『晩夏』を書いた作家、シュティフターは初期の作品をまとめて「習作集」として発表しました。このなかには私の好きな作品がたくさんあります。

『晩夏』や「彩石集(石さまざま)」と比べても、決して劣らない、多少のぎこちなさはあっても、愛すべき作品。

今回のこの試みは、小さな本工房にとって「習作集」を世に問う場なのかもしれません。

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