2013年10月アーカイブ

独創的な

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むかし、学校である外国語を専攻していたのですが、専攻語学とは別にロシア語と格闘することになって、読解だか解読だか分からない作業をしていました。

4月に文字と発音の概要を習って、連休明けから論文を読んでいくという信じられないようなハードカリキュラム。半年後には受講者が発表するという形になって、授業の前日は準備のために何時間割いたことか・・・

そんな苦しい思い出があるのに、今ではほとんど覚えていません。もともと文献を読むことが目的だったので、会話とか作文とか、そういったモノは必要なかったのですが、それにしても残ったモノが少なすぎると、ちょっと悲しいような。

手元にロシア語で書かれたハーブの本(薬草の話というタイトルで、民俗誌関係の記事が多い)と子供向けの植物図鑑があるので、ちょっとでも読めたらいいなと、ときどき学習書を眺めています。

『ロシア語の入門』というテキストにあった例文です。

Оригинальный писатель --- не тот, который никому не подражает, а тот, которому никто не может подражать.

ふぅ、この一文を入力するだけでも一苦労。この教材の例文をまとめた「はん・ぶんこ」の本を作ったときは、キーボードの配列を覚えていたのに、しばらくやらないとすぐ忘れる。新しいPCではタッチキーボードでモニターに表示されるから、その点は楽です。

で、意味はというと、「独創的な作家とは、誰をも模倣しない者のことではなく、誰も模倣できない者のことである。」シャトーブリアンの言葉だそうです。

せっかくなのでフランス語のテキストをネットで検索、こういう作業も「今は」ラクですね。昔はいちいち図書館に行かないと調べられなかった・・・

L'écrivain original n'est pas celui qui n'imite personne, mais celui que personne ne peut imiter.

この「作家」は、"écrivain" なので、物書きの作家のことですが、最近はモノづくりをする人も作家と呼ぶことがあるので、モノづくり系に当てはめてもいいかもしれません。

小さな本工房は、もともとは小さな本(豆本)を作る工房だったので、ときに「豆本作家」とよばれることもあります。が、私自身は豆本作家であるとは思っていないのです。

豆本を作るひと(豆本作家)にも創作系と製作系とがあるような気がします。

書物の中身(文章であったりイラストや写真だったり)をつくる創作系と、書物の形に仕立てる製作系。

両方ができてしまう、文字通り「豆本作家」もいますが、私は創作系の才能は期待できないので、もっぱら製作系のみ。

製作系でも、ときに「誰も模倣できないような」独創的な作品を作ってしまう作家さんもいますが、私は全然独創的でもない。なんというか、ありきたりな、何の特徴もないのが特徴といったような。

モノづくりには「一点もの」を目指す場合と、何十個何百個も同じものをつくる場合とがあって、前者を芸術家(アーティスト)とするならば、後者は職人(アルチザン)と呼んでもいいかもしれません。

で、小さな本工房はというと、本当は職人系を目指しているのですが、じっさいのところまだまだ。

たしかに同じ規格のものを数十冊、あるいは100冊単位で作ることもありますが、だからと言って職人と呼べるかというとちょっと疑問。

美術工芸品としての手製本を目指すなら、本格的なかがり台やプレス機があって、見返しにはマーブル紙、表紙は革で箔押しもして、花布も編んで、ということになり、その手間や費用は相当なものになりそうです。

でも、ガラスケースに収められるための書物であったり、手袋をしないと手に取ってみることもできないようなものを作る気にはなれないし、それだけの技量もない。だからそれを目指すことは最初から考えていません。

いい素材を使ったから、これだけの手間をかけたから、そんな理由で値段が上がってしまうようなモノ作りをめざすのではなく、逆にいかにシンプルに、経費も手間もかけずにいいものを作れるか、そちらの方を考えます。

私は、書物や帳面を綴じるのは鉛筆を小刀で削るのと同じだと思っています。

工程数はたくさんあるけれど、さほど特別な作業ではない。そもそも鉛筆を小刀で削ること自体、いまはほとんど無いと思いますが・・・でもやってることは似たようなもの。

だから、鉛筆を削ることが独創的な仕事でないのと同様に、書物をつくるのも、小さな本工房がやっていることに関しては独創的とはいえないのではないか、そう考えています。

むしろそういったモノ作りをしたいと。特別なモノではなく、あたりまえのモノ。

でも、こういったモノはたいてい100円で買えてしまう。

手仕事を100円ショップの商品と比べたくはないけれど、一緒にされるのは嫌だし、手仕事ならではの「なにか」を示さないと理解されないだろうな、という思いも。

だから、市販されている商品と同じモノをつくろうとは思わない。そう考えると、市販品と同じでないことがすなわち独創的なということになるのだろうか?

モノ作りをしている人は似たようなことを考えながらやっているみたいです。

最後に、"original"で思い出すのが、次の言葉。

Your manuscript is both good and original; but the part that is good is not original, and the part that is original is not good.

この"manuscript"を「手製本」に置き換えてみると・・・

萬年筆

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先週、愛用の萬年筆を2本一度に失いました。

数年前に萬年筆病を煩い、知らず知らずのうちに両手両足の指の数以上に。萬年筆が増えるたびにインキが増え、インキが増えるたびにペンが増える、そんな具合であれよあれよと・・・

以前の仕事は事務職だったので、それなりにペンを使うことはありましたが、仕事のためと言うよりも勉強道具として(モチベーションアップのため?)買ったはずなのに、勉強そのものよりも道具集めのほうに夢中になってしまって。

そういえば、勉強するしないに関係なく、教材のたぐいを買い集めているのもまた同じ現象かもしれません。勉強のための道具のはずが、いつのまにか道具そのものが蒐集の対象になってしまっていた、それと同じです。

「萬年筆病」と「古書熱」はある意味「持病」みたいなものです。

震災があって、その後引っ越すことになったため、古書も萬年筆も半分ぐらいに減らしました。

書物は引っ越し荷物を減らさなければならないという切実な事情があったので、いくらかはやむを得ないかなとも思いますが、自らの意思で手放したことが悔やまれて仕方がありません。私は新刊書のたぐいにはあまり興味がなく、手元にあるモノの大部分が古書なので、一度失うと同じモノを揃えるのはかなり難しい。それにこういったモノは買うときは結構高いくせに、売ろうとするといくらにもならない、下手をすりゃゴミ扱いだったりするわけで、なんとも複雑な心境です。(私にとっては価値があるのですが、世間一般から見たらどうでもいいようなものなのかもしれません)

萬年筆を手放したのは震災の直後でした。震災で一瞬にしてすべて失った人が大勢いるのに、必要以上にモノを持っていることに罪悪感を覚え、半分ぐらいを買い取ってもらいました。

それでも10本以上残っているのですが、普段使いとしていつも持ち歩いていた2本を一瞬にして失いました。仕事場で資料を棚に戻すときに引っかかって落ちたのか、あるいは・・・

あの日、道を歩いていたら突然ぶつかってきた人がいて、その直後にポケットを見たらなくなっていた。いつもシャツのポケットにさしているのに見当たらないのです。ぶつかった瞬間に抜き取られたとしか考えられません。何とも腹立たしいというか、いったい何が起こったのかも分からないくらい呆然となってしまいました。

なくしたものはパイロットのカスタム743ウェーバリーと初代エラボーの極細(SEF)。

743は現行品だから買えないこともないけれど、そういう問題じゃない!あれはいつ、どこで、誰から(店員さん)買ったかまで覚えている特別なモノなのに。それにエラボーは現行品は買えるけれど、初代のとはちょっと違う、だから代替品として新しく買う気にはなれない。

そんなわけで、今はほかのものを使っています。それぞれ愛着があるものなので、それでも不満はないのですが、とにかく失ったことが悔しい。

過去に自らの意思で手放したのとはわけが違う。古書にしても萬年筆にしても、持ち主にとってはかけがえのないもの、それをこんな形でなくすとは・・・

あれから一週間たって、まだ現実を受け入れたくはないけれど、ようやく気持ちが落ち着いてきたかなといったところ。モノに対する執着心が喪失感を増大させる、本当に必要なモノ以上に持つことがそれをいっそう大きくさせることに気づきました。

萬年筆を無くしたのとほぼ同じく、メインで使っていたPCの調子がおかしくなり、やむを得ず新しいモノに買い換えました。PCは萬年筆や古書のような蒐集の対象にはなりませんが、買い換えればすんでしまうような消耗品のような扱いでいいのだろうかと、ちょっと疑問に思ったりもしました。

さらに、PCにあったメールデータも消えてしまい、あれもこれも失うという事態に。

そんなこんなで9月の末から10月のはじめにかけて、いろんなモノが消えていきました。

とほほ・・・

古書のなかに

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一昨日は雑司ヶ谷鬼子母神の手創り市でした。前夜まで雨降りで、天気がどうなるかと心配しましたが、なんとか無事に一日を過ごすことができました。

8月の千駄木、9月の雑司ヶ谷が雨で中止になってしまったため、久々の出展となりました。その割には新作があるわけでもなく、どちらかというと在庫一掃セールみたいな・・・

入り口近くだったこともあり、たくさんの人が通る絶好のロケーションなのに、いつも同様商売っ気なし。おしゃべりばかりして過ごしていました。

お客さんに、「買わなくてもいいから、次のお客さんが来るまでのあいだ立ち読みでも」なんて声をかけて。だれかが店の前に立っていると自然に人が立ち止まってくれます。なので小さな本工房の前には人だかりが。それだけ見たら、小さな本工房は結構な人気店です。人が集まった分だけ売れれば言うことなしなのですが、案外いい加減なモノです。作り手というのは商売には向かないことになっているのです。

さて、前回の記事は瓶の中の植物でしたが、今回は古書の中の植物です。

clover.jpg小さな本工房の名刺をご覧になった方はお気づきかと思いますが、背景画像に古書と四つ葉のクローバーの写真を使っています。

いかにも素材集かなにかにありそうな写真ですが、実は手元にある古書の写真です。

この写真は名刺のモノとは別に新たに撮りました。

この書物、1898年にドイツで出版された植物民俗誌に関する本で、洋古書サイトで注文し、ドイツの書店から送ってもらったものです。

書物が届いたときにページをめくってみたら、このページにこのクローバーが挟んでありました。摘んですぐに書物に挟んでおいたらしく、左側のページにうっすらとクローバーの跡が残っています。

同じ本にはもう一つクローバーが挟んでありました。ほかのページにも、押し花、押し葉そのものはなくなっていますが、挟んであった形跡があります。

タイトルのページには、Emil Amelong とペンで記されていました。以前の持ち主なのでしょうか。だとすると、このクローバーを挟んだのはEmilさんなのか・・・ いろいろと空想してしまいます。

串田孫一さんの文章に、四つ葉のクローバーの話が出てきます。→爽やかな祈り

このクローバー、いつ、誰が挟んだものかはわかりません。

そして、ドイツの古書店の人が日本に送るときに気づいていたのかどうかもわかりませんが、そのまの状態で届けてくれたことがちょっとうれしくて。

なので、名刺やほかのアイテムに使っています。お客さんとおしゃべりをするときに、こんな話もちょっとしたりします。

小さな本工房は書物をつくるのが仕事なので、身近に古い書物がありますが、この本はちょっと特別な一冊です。

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