2011年7月アーカイブ

本作りのお手伝い

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ひと月前にも書きましたが、その後も絵本の製本をしていました。

これまでは自分が欲しいと思った本を自分仕様で作ったものがほとんどでした。

今回はご依頼を頂き、本作りのお手伝いをすることができました。同じ仕様の本を大量に作る仕事を通して、効率よく正確に、そして美しく仕上げるためのコツのようなもの会得することができました。

一冊一冊が手作りですから、機械で作られたもののような精密さは期待できませんが、ひとつひとつの工程を丁寧にこなし、おなじクオリティを維持できたと思います。

この絵本は本文が60頁ですが、一本の糸でかがってあります。

背の部分がむき出しになっているので、どの頁も平らに開くことができます。一般的な上製本のように背表紙をつけてもいいのですが、手製本らしさを出したかったので、あえてこの形にしました。糸でかがった部分が顕わになるわけで、丁寧に作業しなければならないという緊張感も伴います。

これまで作った洋古書豆本を、A5判基準、同じ製本様式で作って見ました。

豆本ではないので本文紙も若干厚めのものにしてみたところ、予想以上の仕上がりになりました。

インターネット上に古い書籍のアーカイブのサイトがあります。

ここにある画像データ(PDFファイル)をもとに本を作っているので、実物と比べることはできないのですが、それでも100年以上も前の外国の本を自分の手で製本して眺めることができるのは本作りの醍醐味と言えるかもしれません。

あるいは、今回のように作家さんのイラストや文章をお預かりして、小さな本工房がそれを本の形に仕立てる、そういったお手伝いができれば嬉しいなと思います。

印刷・製本のサービスを専門に行うところは他にもありますが、小さな本工房は手作りの暖かみのある本をお届けしたい、そんな気持ちでいます。

韓国語を読む

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先日書棚を整理したのだが、棚から溢れていた本が若干減った程度で、実際のところあまり片付いていない。何冊かは処分し、何冊かは古書店に買い取って貰った。

蒐集している本が「ふつう」でないため、捨てるのも売るのも気がすすまない。植物、ハーブ関係は手放したくないし、古い語学書ももったいない。ちょっとしたコレクションとも言えるものもあるし......

こんな時代だから、書籍のデジタル化が進んでいるのも納得だ。

書棚の数は学生のころから変わっていないのに、その中身はだいぶ変わったことに気づいた。

専攻が韓国語だったので、卒業前は辞書やら教材のほかに韓国語で書かれた文学作品や文法書が占めていたのに、いまは片隅に追いやられてしまい、代わりにハーブや植物民俗関係の本やドイツ文学の翻訳書が並んでいる。

いま誰かが書棚をみたら、なにをやっている人なのか想像できないかもしれない。

そんな中で生き延びた韓国語の本をいま読んでいる。韓流とはまったく無縁の本、さらりと読み流せるようなものではなく、一文一文丁寧に読み解いてみたい、そんな上質な随筆集。

気分的にはお香を焚いて、お茶を飲みながらゆっくりと味わいたいような。

ときどき辞書を引かないと解らないところもあるが、それもまた良いかなと思う。なにも考えずに読み流すよりも、いちいち立ち止まって考えながら歩くような感覚かもしれない。

そういえば、関口存男先生の文章に「遅読の讃」というのがあって、なるほどと思いながら読んだ。

辞書と首っ引きでポツポツ読む外国語には、その遅々たるところに、普通人の気のつかない値打ちがあります。それは、"考える" 暇が生ずるということです。否でも応でも吾人を "考える" 人間にしてくれるという点です。

そう、だから遅読も悪くない、いやこの訓練こそ大切なのだと思う。
速読だとか多読だとかと言われるが、丁寧に読む訓練を疎かにしてはいけないのだ。

古書道楽

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作業机と横の書棚をすこし片付けました。

なにせ、机ひとつの「小さな」本工房なので、きちんと整理整頓しておかないといけないのですが、実情は......いろいろなものがごちゃごちゃ状態です。

ついでに、書棚を動かして、中の書物を並べ替えたり、他の棚のものと入れ替えたり。

こういった作業って、大体思うようにはいかないものですね、さっさと棚に収めれば良いのに、手にとって眺めてしまったり。

高さが180センチと150センチの書棚のほかに、90センチの棚が4つ、それから作業机(机の上が書棚になっているライティングデスクです)にも書物があるのですが、それでも棚から溢れているありさま。この際、いらないものを仕分けしようかと思ったのですが。

作業机の上の棚に並んでいるのは大好きな作家、シュティフターの翻訳書です。これだけで80センチ分のスペースをとっています。これは「聖域」なので、仕分けの対象にはなりません。

机の横にあるガラス戸つきのスチール棚は全部で5段。今まで一番下の段には日本語と韓国語の大型の辞書があって、のこりの4段は大部分が洋古書でした。植物図鑑、植物民俗誌関係、花言葉、ハーブ、園芸書、それからイギリスのナチュラリスト、リチャード・ジェフリーズの著作集等です。最近のものはほとんどなく、19世紀後半から20世紀前半ごろのものです。

この棚は一番下にある辞書類を全部外に出して、別の本を収めることにしました。

で、代わりに並ぶことになったのは、日本語で書かれたハーブ関係の本と、以前刊行されていた「HERB」という雑誌です。

この雑誌、創刊号から休刊に至るまで全冊揃っています。1990年から1998年まで発売時に購入したもので、いろいろと思い出深いものです。今はアロマ系がはやりですが、まだそんなに注目されていなかった頃です。ちなみに、ハーブ歴は製本歴よりも長いのです。

別の棚にあるのは、シュトルムコレクションや串田孫一さんの本、外国語の教材と辞書等々。

そんなわけで、棚から出してはみたものの、収める場所がちょっと変わっただけで、結局仕分けまではできませんでした。

本の整理をしていて、なかなか作業が進まない理由は、本を見てしまうから、なんだと思います。

「読む」のではなく、「見る」のです。印刷されたページの文字の大きさや余白の取り方、活字の雰囲気、紙の質感、製本の仕方など。文庫本でも活字や余白のバランスなどでだいぶ雰囲気が違うのが不思議です。

ときどき癖がある書体で本文を組んである本がありますが、なぜこの書体なのか解らない、あるいは行間が狭すぎたり、広くて間延びしていたり、そんなところに気をとられて、内容に集中できないこともあります。

そういった本は、入手困難な古書でなければ、仕分けの対象になることが多いような気がします。

本を作るとき、もし印刷する内容を自分でレイアウトするのであれば、なるべくシンプルに、内容そのものに専念できるようにすべきと考えています。特に文字が中心で、「読む」ための本を目指すならば、オーソドックスな書体で十分だと。

洋古書の中にはドイツの本もあります。むかしの本なので、フラクトゥール書体で印刷されていて、いかにも獨逸って感じがします。これもよく見るとみんな同じでなかったり、調べてみるとおもしろいかもしれません。

それから、古書ならではの匂いとか手触りとか、書き込みや栞として挟んだであろう紙切れに前の所有者に想いを馳せたり、そんな愉しみも。

ひとまず棚に収まった書物(の背表紙)を眺めて、ひとりにやにや。ちょっと大げさですが、至福の時です。

書物には「読む」愉しみ、「見る」愉しみ、「眺める」愉しみがあるようです。

で、「作る」愉しみは......

手製本

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明日は手創り市です。

http://www.tezukuriichi.com/home.html

天気は心配なさそうですが、どのくらい暑くなるか。

偶然にも先月と同じ場所です。記憶違いでなければ、大きな木の下です。

木陰になっているので、案外過ごしやすいかもしれません。木漏れ日の下での露天商も悪くないかも、です。

先月の手創り市のあと、絵本を大量に製本していました。

これまで作っていた本が「はん・ぶんこ」サイズの本がほとんどだったので、A5判の本が大きく感じられます。でも、慣れてしまうとこれはこれで良いかも、って思えてくるんですね。

私の本は、最初にサイズが決まっていたようなモノなので、A5判とかA6判(文庫本サイズ)にはほとんど興味がありませんでした。

持ち歩くのにも邪魔にならない、それでいて文字の大きさも小さすぎないようにして、きちんと「普通に」読むことができるものというのが大前提だったので、最初からA7判が基準になっていました。

この大きさ、書店にある本でこのサイズというのは聞いたことがありません。なにかのおまけとか付録ならあるかもしれませんが、本体が「はん・ぶんこ」サイズの本というのは小さすぎるのでしょうかね。

でも、「豆本」の世界から見ると、あんまり「豆本」らしくないんですよね。「はん・ぶんこ」サイズの他によく作る大きさが、その半分のA8判(74ミリ×52ミリ)なのですが、これが実用的かというと、私にとってはちょっと微妙なところ。「百人一首暗記帳」はわざとこの大きさで仕立てたのですが、「普通に」読む本であれば、ここまで小さくしようという気持ちにはなれないのです。

というわけで、私の本は、普通の本から見たら小さすぎるし、豆本と言うにはちょっと大きい、そんな位置づけなのかもしれません。豆本をサイズで定義するなら、私の本は豆本とは呼べないかもしれない、でも、そんなことはどうでも良いかな、って思います。

これまで自分で作ってきた小さな本を、A5判、A6判で作り直してみました。同じ素材なのに、大きさが違うだけでだいぶ印象が変わりました。

19世紀の花言葉の本。

これはオリジナルの本が手元にあって、全部のページをスキャンして、左右のページに切り分け、配置し直して印刷・製本したものです。

これまでのA7基準からA5基準に作り直してみました。

オリジナルとほぼ同じ大きさです。

画像を明るめにしてあるので、白っぽい感じになってしまいました。

ついでなので、他の絵本もちょっと大きめのサイズで仕立て直しました。これまでとは違った紙に印刷したので、そのせいもあるかもしれませんが、イラストが迫力を増しました。

素材は同じなのに、どんな紙を使うか、どのサイズにするのか、製本の様式はどうするか、などで書物としての本のイメージががらりと変わるのが不思議です。

それぞれの本にふさわしい体裁というものがあるということなのでしょうね。

せっかくの手製本ですから、自由に作ってみるのもおもしろいかもしれません。

明日は新作のお披露目はありませんが、同じ本(コンテンツ)を違った大きさで製本したものがありますので、比べながらご覧いただくことができます。

工房通信(7月)

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まずはお知らせから。
今月17日の鬼子母神「手創り市」に出店します。(野外市のため天気によっては中止です。当日サイトで確認して下さい。)

↓手創り市のサイト
http://www.tezukuriichi.com/home.html

今年前半のテーマ、対訳小倉百人一首豆本「百歌繚乱」、先月の「てづくり豆本展」の後も若干増えて、目下13点になりました。

手元にある翻訳書が英語(4冊+コピー2点)、ドイツ語(3冊)、フランス語(1冊)、ロシア語(1冊)、中国語(1冊)、それから漢詩訳(1冊)といった具合です。

手元に書物があるのに、わざわざ豆本にする必要があるのか疑問ですが、ドイツ語、フランス語、ロシア語の本には日本語がなくて、ちょっと不便なので対訳版にしました。

自分で本に仕立てるので、どれも同じ大きさ(はん・ぶんこ)の本にすることができるという理由もあります。

この対訳小倉百人一首豆本は、どれも同じサイズで、なおかつページの構成も、フォントのサイズや色なども共通の書式になっています。

このように本の中身に対してあれこれ「わがまま」を通せるのも手製本の魅力かもしれません。

本をつくる作業について、印刷の前と後に分けることができます。

何も印刷されていない紙を本の形にするのも製本であることには変わりないのでしょうが、小さな本工房の原点は語学系豆本でしたから、本の中身をどのように作っていくのかを先に解決する必要がありました。(最初は16ページ程度のものだったので、綴じる作業についてはあまり考える必要もなかったのです。)

小さな本工房では印刷するためのデータをInDesignというレイアウトソフトで作っています。

もし罫線だけのノートのようなものを作るのであればIllustratorで作業することも可能ですが、テキストが主体で、数ページ分の連続したテキストを扱うには、InDesignの方がはるかに効率的です。

ただ、出版物のレイアウトソフトとはいえ、「豆本のための」ものではないので、まずは「豆本用テンプレート」を作る作業から始めなければなりませんでした。

いつもの「はん・ぶんこ」サイズの本はA4用紙(横目)に片面8ページ、両面で16ページの構成になっています。

当然のことながら印刷して切って折って綴じたときにページが順番通りにならなければ意味がないので、ただ並べればいいというわけでもありません。

両面印刷して裏表がぴったり揃うまで何度も微調整を繰り返し、ようやく満足できるところまでたどり着きました。

ひとつの枠組み(テキストフレームといいます)ができたので、あとはページが増えても対応できるようにしました。256ページまではテキストデータを一気に流し込むことができるので、青空文庫やグーテンベルクのデータを豆本に仕立てることが容易になりました。

テキストデータを編集する際に、いちいち手作業でやるのは非効率的なので、「正規表現」を少しずつ試しながら覚えました。ただ、ラクをしようとして中途半端に一括置換をすると、却って手間が増えることを学びました。このあたりは慎重に行う必要がありそうです。

ここまでできれば、あとは段落スタイルと文字スタイルを調整しながらの作業だけです。

こんな具合で本作りの「印刷前」の段階は進んでいきます。

ここまでは全部PCをつかっての、デジタル作業なのです。一方、印刷した後は切って折ってかがって、と全部が手作業なんです。

手製本とはいえ、完全に手作業なのは印刷した後のはなし。

それ以前はデジタルに頼らなければなにもできません。

デジタルとアナログの絶妙な使い分けとでも言いましょうか、この辺りがおもしろいのかもしれません。

本そのものがデジタル化される流れの中、書物というかたちにこだわり、本を作る、時代に逆行しようとしているかにもみえますが、紙の書物がそんなに簡単に無くなることはないと思いますし、無くなってはいけないのだと考えています。

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