2011年6月アーカイブ

ご縁に感謝

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今月の後半は絵本の製本をしていました。

A5判で60ページ、本文は新鳥の子紙という柔らかい紙です。

表紙に使っているのは花こよみという和紙で、全体は桃色で波形の地紋が入っていて、邪魔にならない程度に小さな色紙がちりばめられています。

落ち着いた雰囲気で、時間の流れと繋がりといったものを感じさせる、そんな紙です(絵本の内容を意識して選んでみました)。

そして、写真には写っていませんが、おなじ和紙の色違いのカバーを掛けます。

絵本なので、どのページも平らに開くことができるように、敢えて背表紙をつけずに糸でかがった部分が見えるようになっています。

このあとカバーをかけるので背の部分は隠れるのですが、一番手製本らしい部分かもしれません。

かがり糸は綿100%のレース編み用のもので蜜蝋でロウ引きし丈夫にしてあります。、紙の色に馴染んでいるので糸が主張しすぎることはありません。

表紙は厚紙を折ったものを芯に使い、四辺をくるむカタチにしてあり、内側にも同じ色の和紙を貼ってあります。

説明はこのくらいにして、本の中身はというと......

これは私の作品ではありません。

またこれまで作ってきたような洋古書のデジタルデータを本に戻したものでもありません。

今回ご縁があって、イラストレーターのひらたさんの作品を製本するお手伝いをさせていただくことになりました。ちょうどいま北陸地方で原画展をやっています。

絵本の内容についてはひらたさんのブログをご覧ください。
◆アトリエ「ラクガキ屋」ひらたひさこさんのブログ
http://rakugakiyahisa.blog14.fc2.com/blog-entry-878.html

ひらたさんが長い時間をかけて丁寧に作ってこられた絵と文章を、本の形にするお手伝いができたことをとても嬉しく思っています。

絵と文章に込められた想いを、読む人に伝えられる仕事ができたかどうか......

この仕事は完成を急ぐことよりも一つ一つの工程を丁寧にこなしていくことで、私なりの想いを込めてみました。

手製本ですので多少いびつなところもあるかもしれませんが、手仕事の愛嬌とご理解いただけたらと思います。

ところで、おかしな話ですが、実はひらたさんとは直接会ったことも話をしたこともありません。

たいていの場合、このようなコラボをするときは直接話をしながらあれこれ決めていくものなのでしょうが、メールでのやりとりのなかで自然とできあがったようなところがあります。

去年の冬に工房にじのゆめさんとのコラボで「種ふわり」という16ページの小さな本と封筒を作りました。

これをひらたさんがご覧になり、その雰囲気で本を作りたいというところから製本の話が舞い込んだのです。

実はこの本を一緒に作った工房にじのゆめさんとも、知り合ってからもう十数年になるというのに直接会ったことはありません。メールや手紙、電話で話したり、いくつかコラボ作品を作ったりしたことはあるのに、不思議なことです。

◆工房にじのゆめさんのブログ(小さな本)
http://blog.goo.ne.jp/nijino-yume/e/96ed11875247d3a5c5ae1d1783fe7c97
◆種ふわりの紹介
http://blog.goo.ne.jp/nijino-yume/e/b3189b44ef7b697a024cbfd124f5248e

いま思うと本当に偶然のような出会いだったのですが、こうしていろいろなお手伝いができること、そのご縁に感謝の気持ちでいっぱいです。

語学系豆本

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作品を見てすぐに、これは○○さんの作品だ!とすぐにわかるものを創り出せる作家さんってすごいと思う。

作品に備わっている風格とでも言うのか、このセンスは、このこだわりはまさしく......、といったもの。作る人の世界観がそのまま作品に現れていて、それが作者と作品とを一体化している、なおかつ他の人が一目見ただけで見抜いてしまう。単にひとつの作品を作るというのではなく、「世界観」を創り上げている。

小さな本工房の本もそうありたいものだと思う。

まだ作品自体がそれほど世に出回っているわけでもないし、直接作品を見ていただく機会があったとしても、これが小さな本工房の世界だという決め手になるものがない。

創作系ではないので、本の中身(コンテンツ)に関しては勝負できそうもないが、他の人が作らないであろうコンテンツがあるとすれば、「語学系」豆本。

専攻が語学系だったので、例文集や単語帳、活用表といったものを小さな本に仕立てることはできないか、そんな思いつきからできあがった本。ドイツ語の教材『関口・初等ドイツ語講座』の例文を集めた例文集、フランス語の動詞活用表をカラフルにアレンジした動詞活用便覧、韓国語の漢字音を韻母ごとに並べ替えて作った韓国語漢字音便覧、等々。

豆本にかぎらず、手製本を手がける作家で、こんな本を作ろうと考える人はそういないと思う。

小さな本工房のはじまりは「語学系豆本」だった。

まずはその大きさ、文庫本の半分「はん・ぶんこ」サイズ。

それから電車の中などでも普通に読むことができるサイズでテキストを組んであるので、手にも馴染むし、目にも優しい。

この両方を備えていなければ作る意味がない、というくらい実用性にこだわった。

実際に使うのが目的なので、装飾的な要素はないが、開きやすさ、丈夫さは市販の本にも負けていないと思う。読むだけでなく、書き込み作業をすることも多いので、どのページも平らに開くように製本してあるし、本文紙も筆記に適した紙を選んである。

サイズは見開きで文庫本と同じだが、感覚としては、情報カード(5×3カード)を綴じたようなものかもしれない。

見開きで収まらないばあい、全体を俯瞰できるようなチャート(索引を兼ねる)を大きめの紙に印刷し、ミウラ折りで表紙の内側に貼り付ける。そうすると全体を俯瞰しながら、個々のページを参照することができる。

それから、この本は化粧裁ちをしないので紙に無駄がなく、ゴミが出ないということも付け加えておく。

こうしてできあがった本をいつも鞄の中やポケットに入れて持ち歩き、電車の中やちょっとした空き時間に取り出して眺めたり、念仏のように唱えたり。

語学の勉強なんて、別に机に向かってやるようなことではない。暗記物は電車の中や空き時間にやった方がいい。寝転んで眺めるにしても、このサイズの本なら邪魔にならないし。

ついでながら、百人一首暗記帳も最初は「はん・ぶんこ」サイズだったが、これに関しては試行錯誤の結果その半分のA8判にした。これはこれで使い勝手が良い。

そう考えてみると、小さな本工房の語学系豆本は思っている以上に実用的なことがわかる。いまも新しい本を準備中である。

ただ、こういった本はイベントやマーケットで注目される可能性がきわめて低い、なのでひっそりと作り続けるしかないのだ。

まぁ、自分が欲しいものを作っているだけのことなので、注目されるかどうかはあまり重要ではないのだが。

解ってくれる人がいたらうれしいな、と、それだけ。

あったらいいなと思うもの

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一ヶ月前に書いた記事「ないものをつくる」の続編。

無いものを創り出す、そして実際に作る原動力となるのが、「あったらいいな」という想い。ふたつの「ソウゾウリョク」(想像力と創造力)は相互に無関係ではない。

無ければ無いなりに何とかなってしまう、そんななかで何かを作り出すことは決して無意味なことではない。

どんなに優れたものにも改良の余地はあるし、どんなに劣ったものにも何かしら長所があるというもの。ちょっとした組み合わせや発想の転換で意外なものが生まれたりするからおもしろい。

手製本にだってそういったなにかがあるはず。

本そのものだったり、その本を作るための道具だったり。

先の記事、製本工房の七つ道具で紹介した道具類はこれまで小さな本を作る過程で実際に感じた不便さや苦労をいかにラクに、効率よく、しかも美しく仕上げるかを考えて試作したもの。

他の作り手さんがどのように作業をしているかはわからない。

手製本に関してもレイアウトソフトの操作に関しても書物を見ながらの「独学」なので、ある意味自己流で固まってしまっているのかもしれないし。

教室なり本物の職人の仕事場を見学することができたら、さらに効率よく作業をするコツが得られるかもしれないのだが、反面、そうではないかも、という想いもある。

はじめから苦労もせずに道具を与えられたら、自分で工夫することをしなくなるかもしれない。

何かを生み出す原動力はある種の「不自由さ」や「飢え」のようなもの。

単純な作業を何度も何度も繰り返すなかで、こうしたらいいのではないか、こんなものがあったら役に立つかも、あの道具が案外使えるかも、なんてことを考えてみる。

こういった発想というのは、歩いているときや単純作業のときにふと思い浮かぶことが多い。

散歩が発想力にとって効果があるという話を聞いたことがあるが、ひたすら折る、切る、かがる等の作業をしているときも同じなのかもしれない。

単純作業だなんて侮ってはいけない。むしろこういったときに思考が活発になるということだってあるのだ。

いま同じ規格の本を100冊製本する作業に取り組んでいる。あれこれあわせて100冊ではなく、どれも同じ仕様で。

分量も分量だが、これだけのものを同じクオリティで製作するには、効率だけでなく、段取り力が要求される。

とにかく必要な分の材料を先に揃えて、かがり前の下準備をしておく。表紙の和紙を同じ大きさに切りそろえ、芯になる厚紙を全部折り、和紙を貼り付け、余白を切り落とし、かがるための穴を開けておく。綴じ糸は必要な長さに切りそろえ、ロウ引きして丈夫にしておく。

そんな下準備に数時間を要したが、このおかげで、あとはかがり作業に専念できる。本文は12ページ×5折で60ページ、最初と最後に表紙がつくので7折分を一本の糸だけでかがる。

絵本なので、どのページも平らに開くように製本する。文字通り単純作業の繰り返しだが、上にも書いたように、こんなときに湧いてくる発想こそ大事にしたい。

これまで作ってきた本は、大部分が自分仕様、というか自分が欲しいと思ったものを作ってみた、というようなものばかり。

今回のような依頼を受けての製本はこれまでもあったが、これほど大部のものではなかった。

もし、こういった需要が他にもあればお手伝いしたい。

なんらかの作品を書物のカタチにすること、もしそれが本格的な自費出版となれば部数もそれなりに作らなければならないし、当然、コストもかかる。

一冊とか数冊のために製本職人に頼むにしても安くはないはず。美術品や工芸品のような本を作るのではないから、豪華である必要はない。

写真をアルバムにしてくれるサービスはあるけれど、イラストや文章を本に仕立ててくれるところは?

こんなときに、小さな本工房がなにかお役に立てたら嬉しいな、と思う。

工房通信(6月)

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今日6月7日から来週15日まで渋谷にあるギャラリー・セルで「てづくり豆本展」が開催されます。人気豆本作家45名によるオリジナル豆本の展示即売です。

小さな本工房が「人気豆本作家」かどうかは分かりませんが、まぁ、豆本を作るという意味での「作家」でありたいという想いはあります。

理屈っぽい話になってしまうかもしれませんが、「豆本作家」ってなんでしょうね?

平たく言えば、豆本を作る人、ということなんでしょうが、この「つくる」といっても、本の中身(文章なりイラスト、写真などのコンテンツ)を作るのも作家だし、それを本の形に仕立てるのも作家というかもしれないし。

ちょうど一年前に彷書月刊に寄稿した「実用的豆本」に書いたように、「創作系」と「製作系」に分けて考えても良いのかなって思います。両方ともこなす作家さんもいるけれども、私はそんな才能はなさそうだし、いまのところは製作系で手一杯かも。

豆本展で展示しているのは、百人一首豆本、百人一首暗記帳、そして対訳小倉百人一首、それから洋古書豆本化プロジェクトのほんの一部です。

洋古書豆本は、印刷原稿の作成から製本までは小さな本工房の作業によるものですが、コンテンツそのものが工房オリジナルではないので、展示は控えめにし、手元に欲しいと思っていただけたら購入いただけるように、販売用を何冊かおいておきました。

販売だけではなく、「展示」という意味合いもあるので、対訳百人一首豆本を準備してみました。見ただけではなんの本なのか分からないくらいシンプルな装幀です(あまりにもシンプルすぎるので、私自身もどれがどれだか分からないくらいです)。

展示用に9冊おいてありますが、全部違う翻訳です。まだ製本に至っていないものや、翻訳書を取り寄せ中で届いていないため製作できずにいるものも何点かあるので、今後も増える見込みです。

百人一首は素材としては豆本向きなのでしょうね。そんな中で、なにかオリジナリティを発揮できるようなもの、それが対訳版でした。

いま展示されている9種類の翻訳はどれも小さな本工房が所有しているか、あるいは図書館から借りて来て、あるいは国会図書館で内容を確認した上で、入力から製本までを行ったものです。

フランス語、ドイツ語、中国語などはなかなか見る機会がないと思われるので展示してありますが、英訳はちょっと古めのものばかりです。

訳文を全部入力し終えたら、A7判で仮製本し、原文との照合作業を行い、そのあとでA8判の豆本に仕立てました。なので、どの訳本もA7判(はん・ぶんこ)の本が手元に残ります。私としてはこちらの方が手になじむ大きさで、文字も適当に大きいので気に入っています。最終的にはこの半文庫サイズで上製本に仕立ててみたいと考えています。

翻訳の種類が10を超えたので、翻訳者ごとの本の他に、一首多訳版も作ってみようか、そんなことを考えています。文字通り、一首の歌に対してどれだけの翻訳があるのか、その違いを読み比べる趣向のもので、むかし作ったシュトルムの「翻訳詩・集」と同じ(方向は逆ですが)ようなものです。

一つの作品が翻訳によっていくつもの顔を持つ、これは私にとっては興味深いことです。シュトルムやシュティフターの翻訳書を集めたのも同じ思いからですし、ギッシングの「ヘンリ・ライクロフト」やヘッセの「放浪」等も違った訳文があれば集めてきました。

これは、作曲家によって書かれた楽譜は一つなのに、指揮者や演奏者によって聞き比べができるのと同じような愉しみかと思います。むかしパッヘルベルのカノンばかり集めて編集したことがありますが、それを文芸作品で、そして手製本の世界で生かそうとしているわけです。

小さな本工房の作品はあまりにも普通の、おとなしめのものばかりで、派手さや奇抜さは全くありません。百人一首豆本は雅な和紙で装幀していますが、美しさを求めた結果であり、注目されるための演出を狙ったものではありません。

なにかしら個性というか特徴があるとすれば、小さいけれども「普通の本」であること、でしょうか。

豆本といっても書物(あえて書物と呼びましょう)であるという認識ですので、普通に読むことができるという、当たり前のことを追求したところでしょう。

そういった意味で、必要以上に小さくすることは考えていませんし、大きさに関係なくきちんと開いて(ストレス無く)読むことができることが第一の条件であるという認識です。本(カタチとしての)そのものが気になって、中身に集中できないものを書物と呼んでも良いものか、ちょっと疑問です。

またまた昔話になってしまいますが、大学で外国語を専攻していたため、ときどき考えることがあるのです。ハマトンという人が書いた『知的生活』という本に、私たちが外国語の本を読むときに、本来書いてあることに注意を傾けなければならないはずなのに、文法や言い回しのほうに気をとられてしまい、中身が見えてこない、そんなことが書いてありました。コンテンツではなく、外見のほうが気になってしまうということでしょう。

豆本が書物であるためには、中身に集中できるような造本であって欲しい、それはカタチにばかり気が行ってしまって、本来伝えるべきコンテンツに読者がついてきてくれないのではないか、そんなことを考えてしまいます。

豆本が書物なのか、あるいは雑貨なのか、勿論どちらであってもかまわないのですが、小さな本工房では書物であるという認識で製作しています。

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