2010年12月アーカイブ

工房通信(12月)

| コメント(0) | トラックバック(0)

のらりくらりと過ごしてきた一年だったが、今年もあと数時間。今日と明日で何が変わるというわけでもないが、一応一区切り。

「小さな本工房」の活動を始めて数年が経つ。実際にはいつからこの工房名を使っているか記憶にないのだが、この名称が気に入っている。いつか書いたことがあるが、「(小さな+本)+工房」でもあり、また「小さな+(本+工房)」でもある。小さな本ばかりを作っているわけでもないので、どちらかというと後者の意味合いが強いかも。

春に「彷書月刊」に寄せた文章、「実用的豆本」にも書いたように、自分がほしいものを掌に収まる本に仕立てることが始まりだった。ただ小さいだけというのではなく、使い勝手が良いものでなければならない。そういった意味で、小さいことを「売り」にするようなことはしたくない。

長辺が○○ミリ以下の本を豆本と呼ぶというような定義があったら、自分の本はほとんどが「豆本」ではなくなってしまう。別にそんなことはどうでも良いと思っている。なんなら私のは「豆本」ではなく「小型本」です、と堂々と言えばいい。私の本は「はん・ぶんこ」、これがこだわりなのだから譲るわけにはいかない。

豆本作家の中には、硬貨ぐらいの作品を作ってしまう人も少なくないが、この大きさの中に十分に読むことができる文章なり写真、イラストを入れるのは容易なことではないと思う。本そのものが小さいのだから、大抵の場合は文字も小さくせざるを得ない。眼鏡なしでは普通の読書も大変な身としては、かわいいとか、小さいとかよりも、読めることを前提にして欲しいと言いたくなる。

豆本の世界にも作家の数だけ作品の多様性がある。それぞれのこだわりが凝縮されているわけだから、当然と言えば当然のこと。

私は、豆本とか小型本とかいった大きさ(小ささ)よりも、きちんとした「書物」であることを理想としたい。読みやすい体裁であることが第一であり、派手な装幀や奇抜なものを作るつもりは毛頭ない。読みにくい書体を用いてる作家もいるが、なぜこの書体なのか理解できないこともある。書いていて、なんだか同業者に対する批判みたいになってしまいそうなのでこれ以上は差し控えようと思うが......

今年なんとか一段落したのが『韓国漢字音便覧』(144ページ)。思い立ってから2年近くかかってしまった。まだ手直しが必要なところはあるが、少しずつ進めていくしかない。これは自分と周囲のごく一部の人にとっては有益だが、一般ウケするものではない。『フランス語動詞活用便覧』やロシア語の例文集なども自分用に作ったもの。『フランス語動詞活用便覧』は着想のもとになった本を書いた先生の目にもとまり、試作品をお届けすることができ、好意的な評価を頂くことができた。

6月に行われた「豆本フェスタ2」では商品が間に合わず、受注生産にしてしまった。これにはいろいろな事情があるのだが(その一つは単に怠惰なだけ)、製本をしたのは私であっても、中身は私自身の作品ではないということ。洋古書のスキャン画像(デジタルデータ)を紙の本に戻すアナログ化を試みただけで、中身から製本、装幀まですべてがオリジナルとは言い難い。ただ、こういったこともできるのだということを知ってもらいたかっただけかも。

だから12月の「手創り市」のときも、敢えて未完成の状態で見てもらうことにした。完成させてしまうとそれで作品、商品として扱うことになってしまうが、果たしてこれを商品として売ってお金を頂いて良いのかちょっと躊躇ってしまう。苦肉の策ではあるが、購入したい方から装幀の希望をお聞きして完成したものを後からお送りすることにした。結局は受注生産と変わらなくなってしまった。

洋古書の豆本化は自分の書棚に並べる分には良いのだが、それを商品としてしまって良いのかは悩むところ。

マーケットに出店してみて、興味を持って下さるお客さんが案外多いことに驚いた。自分でも作ってみたいという話もあったくらいなので、機会があったらコツというかノウハウを伝授するのも悪くはないかもしれない。

さて、今後の計画であるが1月16日(日曜日)の「手創り市」に出店予定。但し野外マーケットなので、雨天の場合は中止になってしまう。いろいろな手作り作品のなかの一つとして小型本が受け入れられるかどうか、このことを自分で確認する場でもあるし、他の作品から着想が得られることも多い。

長々と独り言を綴ってしまった。が、過去を振り返り、未来への展望を示すという意味ではそれなりの意味があるのではないかと思う。

電子書籍と紙の本

| コメント(0) | トラックバック(0)

今夜9時のニュースで、電子書籍と紙の本について伝えていた。
電子書籍を閲覧する端末が売れているらしい。そういえば数ヶ月前にも同様の報道があったし、書店の棚にも電子書籍に関する本が並んでいる。

紙の本をデジタル化することを「自炊」と言うらしい。確かに紙の本は重いし、冊数が増えればそれだけ場所ふさぎになる。現に自分の部屋も本が棚からあふれている状態だし......
いまミニチュア化している洋古書もデジタル化されたデータがあってこそ可能なわけで、それ自体を否定するつもりは毛頭ない。
が、なにか物足りない気がする。やっぱり紙の本で育った世代としては(今に限って言えばほとんどの人がということになるだろうが)本は紙に印刷されたものと考えるし、本を裁断することに罪悪感を感じる。最近は消耗品的な本も溢れているので、それ程貴重なものという認識はないのかも知れないが。
ただ、自分の周りにあるのは新刊書店では取り扱っていない「古書」のほうが遙かに多い。となると本をバラバラにしてスキャンして、後は廃棄処分、そんなことはできるわけがない。

印刷された本をデジタル化する流れのなか、逆にデジタルデータを本のカタチに戻す作業をしている。そのまま元のサイズにしたのでは面白味がないので、小さな本に仕立てみる。なんだか時代の流れに逆行している気がしないでもないが、電子書籍が主流になる日が来ても、紙の本がなくなることはないと思うし、そんなときに製本の技術が誰かの役に立つことになるかも知れない、なんてことを密かに考えてみた。

ワープロやPCが当たり前になったとき、手書きから解放されたと喜んだ人は多かったと思う。が、しかし、ノートがなくなったわけでもペンがなくなったわけでもない。ここ数年、萬年筆が売れているという話もある。
なんでもかんでもデジタル化される、あるいは便利になるのが良いというのではない。あまり便利になりすぎると、人間はだんだん衰えていくような気がしてしまう。

そんな心配をしてしまうこと自体がアナログ派なのだろうか。

「えっ?」の意味は?

| コメント(0) | トラックバック(0)

昨日、手創り市に初出店。今年の秋に客として2回見てまわって、今回は出店者の立場になった。
本当は10月の時にも出店することになっていたのだが、雨のため中止になってしまった。今思うとそれはそれで良かったと思っている。今回はそれなりに展示するものもたくさんできたので、まずは第一歩を踏み出せた感じ。

おかしな話だが、マーケットに出店するというのに商売っ気が全くない。出店料を払うわけだから、いかに稼ぐかを意識しなければならないのに、どうしたわけか売ろうという気持ちにはならない。


理由はいくつかあるのだが、完成したものは自分でも気に入っているので手放すのが惜しい。作成中のものは見て頂くためのサンプルで、完成に至るまでの最後の工程(表紙づくり)はお客さんの要望を聞いて、希望通りの本を作りましょうという提案をするため。それから100年前の本でネット上で自由に閲覧できるとはいえ、自分の作品ではないわけで、それで稼ぐというのは後ろめたい。

そんなわけで、手に取って見て頂くだけで満足と考えた。

これまで「豆本」に特化したイベントに出店したことはあるが、これは出店する側もお客さんも豆本に興味があって集まるのだから手製本を見てもらえるのはあたりまえ。お客さんだって入場料を払っているのだ。

今回のマーケットは、さまざまな種類の手作り品が出ている。そんな中で、自分の作品に対してどのくらいの反応があるのか、それこそ期待と不安が入り交じった気持ちだった。

展示品の前で立ち止まってもすぐに去ってしまう人もいれば、手に取って見てくれるお客さんもいる。あれこれ話をするのも楽しみの一つで、文字通り立ち話で盛り上がったり。むしろこの雑談のために出店を決めたようなものだ。

最初に「商売っ気がない」と書いたが、なんと作品(商品)に値段もつけていないし、従って値札もない。お客さんに対しては誠に失礼な話だ。

で、ときどき買い求めたいという方もいらっしゃって、「おいくらですか?」と聞いてくる。大体の基準は決めてあるので、「○○円ぐらい頂きたいのですが......」と控えめに答える。すると、お客さんの反応は「えっ?」となる。こちらは慌てて「高すぎますか?」と不安げに聞き返すのだが、案外逆で「そんなに安いんですか?」と言われる。冗談交じりに「では、もっとお支払い頂けるのであれば......」なんて言ってみるのだが。
これって、普通のやりとりの逆じゃない?

今回、土曜日から日曜日の朝までずっと作業に追われ、徹夜までした。マーケット中は席を離れることもできず、それこそ飲まず食わずの状態。しかも屋外で風が冷たいし、陽も当たらない日影だし......でも楽しかった。

今後は値段をつけて、きちんと買って頂けるようなものを作ろうと思う。展示の仕方や接客などまだ不慣れなところはあるが、今後もできるだけ参加してみたいと思っている。今度出店するときは事前にお知らせします。

ちなみに出店料と材料費分ぐらいは稼がせて頂きました。

語学は「ムダ」が美しい?

| コメント(0) | トラックバック(0)

午前中は百人一首豆本のための内容チェック。
本によって表記が違っていて混乱してしまう。

メインのPCがちょっと危なくなってきたので、サブPCで作業することが多いのだが、午前中起動しなくなってしまい、焦りまくり。今はなんとか動いてはいるが、この先大丈夫だろうか?豆本用のデータがこっちのPCに入っているので、動かなくなったら困る。

本当なら豆本等の製作をしなければならないところだが、「気分が乗らないときは無理をしない」という原則に従って作業は中断。急ぐよりも良いものを作ることの方が大事なのだ。

そんなわけで今日は昨日買い求めた別の本を読んで過ごした。

タイトルは『ロシア語の余白』。『語学は「ムダ」が美しい?』とは帯にあるキャッチコピー。
自分自身も専攻が語学系だったし、同じ著者の本をすでに何冊か読んでいるのでこの本は即購入。昨日電車の中で読み始め、寝る前に少し、そして今日の午後残りを読んでしまった。
書籍の帯には、タイトルにあるコピーの下に「授業中に先生が話す雑談のような111のエピソード」と書いてある。

こういうのが好きなんだなぁ......(しみじみ)。読みながら、笑ったり、頷いたり、なるほどと思い、案外共通点が多いことに喜んだり。

語学って、どうしても教科書や辞書だけで身につくものではない。むしろこうした本の方がおもしろかったりする。

自分で言うのもどうかと思うが、変なこだわりがあって、新しい教材が必ずしも良いとは思っていない。見た目は楽しそうに導いてくれるのだが、あっさりした感じがして......

だから古い語学書を見つけると、「ムダかもしれない」と思いつつつい買ってしまう。
どう言ったらいいか分からないが、気迫というか、威厳のような......苦しいだろうけど、これをやらないとダメだぞ!と言われているような。

ドイツ語を勉強しようと思って選んだ教材が『関口・初等ドイツ語講座』という3冊本だった。この本にある「序言」はまさにそんな感じ、衝撃的だった。こういう教材って今は流行らないんだろうな、なんて考えてしまう。そう思いつつ、古い教材のほうが俄然やる気が出るのは、ひねくれ根性の表れか、単なるあまのじゃくなのか?

百人一首

| コメント(0) | トラックバック(0)

昨日は久々に書店巡りをした。しかもいつもとはちょっと趣が違う。

先にフランス書籍を扱う専門書店で"De cent poètes un poème"という本を購入。これは先日同じ書店で見つけて、「買うか買わないか」悩んだもの。いや、(財布の中身の都合で)買えないことで悩んだのが正しい。

ちょうど豆本の製作代金が入ったので、早速出かけた次第。幸い売れてしまうことなく、無事に手に入れることができた。

次に向かったのがロシア書籍の専門店。ここでも収穫あり。ロシア語で書名を打ち込むのも面倒なので日本語で表記すると『百人一首』つまり、あの百人一首のロシア語訳ということ。

ちなみに、先のフランス語の本も『百人一首』のフランス語訳。
こんな具合で、フランス語とロシア語に訳された百人一首の本を手にして、カルタの専門店にむかう。

ちょうど二階の展示スペースでは百人一首の展示を行っていて、豪華なカルタを眺めて、お店の人とちょっとお話をする時間も持てた。

豆本『百人一首暗記帳』を話のきっかけに、昔つくられたという暗記カード(単語帳のようなもの)を見せていただいた。こちらはリングでとめただけのカード式なので、順番を変えたり、覚えたものと覚えていないものとを分けたりすることができる。一方、自作の豆本は糸綴じ本で、順番が決まっている。でも、ここがポイントで、歌番号とは関係なく、覚えることを第一に考えた配列になっているのが特徴。

本物のカルタの取り札の大きさを確認して、このミニチュア版を作ってみようかなどと考えながら店を後にする。

その後いつも覗いている古書店をチェックして、最後に界隈では一番なじみの古書店に向かう。ドイツ文学の翻訳書(シュティフターやシュトルムなど)を集めるときにお世話になったところで、立ち寄ると1時間ぐらい雑談をしてしまうこともある。

書籍の発送準備作業をしているところで、万年筆で書いているのが見えたので、まずは万年筆の話題から。モンブランの大型のペン、使い込まれていて、書きやすかった。
モンブランはなんとなく「いかにも」という感じがして、今まで一度も使ったことがなかった。(そのくせペリカンは上位モデルに手を出してしまったくせに......)
それから、フランス語の百人一首の本を手に入れたことを告げ、一緒に鑑賞する(店主は仏文出身だという話を前に聞いていたので)。外国文学の翻訳書を専門に扱う書店なので、言葉に対するこだわりはこれまでの話の中でもたびたび伺っていたが、和歌にも造詣が深いことを知り、驚いた。

最後に丸善で書籍、文房具を見て回り帰宅。

ちなみに、フランス語、ロシア語で百人一首を味わうだけの語学力は持ち合わせておりません。この点は誤解無きよう。
そういえば、手元に『漢訳小倉百首』という本がある。和歌を五言絶句にしてしまうとは、恐れ入りました。他にも、万葉集の漢詩訳(抄訳)が手元にある。

高校の時、英語の先生が英語訳の百人一首の本をお持ちだったので、しばらくお借りして、英訳された百首を筆写したことがある。何となく古風な英語だったことは覚えているが、英詩を味わうほどの能力もなく、ただただ書き写した。
丸善の洋書売り場に英訳百人一首の本があったが、こちらはパス。昔書き写したものとは違うはず。筆写したレポート用紙は田舎の物置にあるので、こんど確かめてみたい。

そんなわけで、一日が「百人一首」でつながった、なんとも優雅で高尚な休日となった。

Powered by Movable Type 5.2.3