2008年5月アーカイブ

古書か書棚か?

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むかし、ある人とメールのやりとりをしていたときに、アンティークの書棚の話になった。

その人曰く、十数万円のアンティークの書棚があるとのこと。5桁でなく、6桁......どのようなものなのかは分からないが、とても興味津々だった。

自分の部屋にある書棚は大きなものは180センチ×90センチのもの、次に150センチ×90センチのスチール棚(一応鍵がかかる)、そして90センチの高さで幅も90センチのもの、それから90センチ×60センチの組み立て式の安い棚が4つ。そしていつも使っているライティングデスクの上の部分が棚になっている。

棚の幅だけを合計したら結構な長さになりそうだ。

スチールの棚はずっと昔から使っているものだが、アンティークとは言い難いし、ほかの棚だってホームセンターに売っているものだからたいしたものではない。

家具売り場なんてほとんど用事がないから行ったこともないし、書棚に十数万円も払う余裕など最初からない。

でもちょっと気になってしまう。

スチール棚に入っている書物はほとんどがハーブや園芸関係の本なのだが、5段ある棚の内、4段分はイギリスやドイツの古書だ。(残りの1段はなぜか韓国語と日本語の大型辞典なのだが)棚に横文字の背表紙が並んでいる様子は壮観ではあるが、スチール棚にガラスの扉(いわゆるオフィス家具)というのは味気ない。

夢中になって集めたシュティフターコレクションはライティングデスクの上の棚に並んでいる。これはいいとして、シュトルムコレクションは1000円程度の棚に窮屈に並んでいる状態。なんだか申し訳ないような......

もし、これらの本が立派な書棚に並んでいたら、と想像するとやっぱり棚が欲しくなったりもする。

だが、ちょっと冷静になって、別のことを考えてしまう。もし、十数万円の書棚を買う余裕があったとしても、たぶん書棚ではなくて、古書を買ってしまうだろうな、と。

あのときのメールでも、たしかそんな展開になったような気がする。

書棚は欲しいが、そちらにお金を使ってしまって中身がなくなるよりは、棚はたいしたものでなくても、気に入った本が手元にあることの方がやっぱり幸せなのかもしれない。

知的生活

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最近忙しいのに、無性に本が読みたくなる。試験直前になると急に部屋の掃除を始めてしまうのと似ているかもしれない。

しかも、最初から最後までを読み通すのではなく、あの本この本数冊持ち歩いて、そのときの気分である部分だけを読み返す、そんなスタイルなのだが。

こんな時に持ち歩くのは大体が以前読んだことがある本(初めての本を拾い読みすることってあんまりしないかもしれないので)。

なので随筆だったり、短編集だったり、大体がそのような本ばかり。韓国語の随筆集もそうだし、『馬鹿たちの行進』もそう、昨日のギッシングノ短編も、それから今日読んでいた『知的生活』もそう。

ハマトンの『知的生活』という本、もう20年も前に読んだもので、大学のとき、卒業してからという具合で何年かおきに読み返している。

学生の頃と今とでは、同じ箇所を読んでも、感じることが違うように思う。昔、線を引きながら読んだ部分を読み返してみると、今読んでみてもなるほどと思うし、その通りだという実感もある。

だが、当時よりもより現実的というか、経験を積んだ分だけ違う見方、考え方もできるようになったと思う。

同じ本でも、その時そのときで、得られるものが違うということだろう。

ところで、ここ1、2年だと思うが、やたらと「勉強法」みたいな本がたくさん出ているような気がする。それはそれで悪いことではないだろうし、その内の何冊かは買って読んでみた。

なんとなく、生存競争で生き残るための勉強みたいなところがあって、ちょっとなじめない部分もある。確かに今みたいな状況で、碌にに学びもせずに歳をとることは危険だ。だが、実利的な面だけを追い求めるわけにもいかないのではないか。

もっと別な面もあると思うのだが、今は考える余裕もない。

アンカット(古書の話)

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古い洋書を買うと、時々ページが裁断されていないモノがある。

もともとこういう本は、ペーパーナイフでページを切りながら本を読んでいく。なので、単純に文字を追っていくだけでなく、1ページ1ページを読み進めるためにペーパーナイフで切っていく作業がともなう。

一度読んだ本は当然ページが切られているわけだから、初読のときのみに可能なことなのだ。本によっては、もったいなくて読むこともできずにいるモノもある。

手元に、そのような本が何冊かある。書棚には並んでいるが、まだ読んでいないことを告白しているようなものだ。まぁ、手元にあるモノはいつかは読むことができるわけだから、そのときを待つとしよう。

このような本は、今の本と違って、ページの大きさが微妙にずれていたり、ナイフを入れたときに切り損ねたりして、そろわなくなったり、それはそれで味わいがある。

日本の古書でもアンカット版があった。シュトルムやシュティフターの翻訳書でもアンカットのモノがあって、それを読んだときは、ほかの本を読んだとき以上に思い出深い印象が残る。

特に思い出深いのは、シュティフターの『遅咲き』という本。小型のハードカバーだが、入手したときはアンカットの状態だった。その頃、仕事で忙しくとても本を読む余裕などなかったのだが、この本のために、わざわざペーパーナイフを買ってきて読んだ。

熱い紅茶を準備して、お香を焚いて、音楽をかけて、......まぁあれこれ準備をしてから、本を読む。

読むだけだったら電車の中でも、公園のベンチでも、どこでもかまわないのだが、このような本を読むと時は、それなりの演出もしてみたくなるものだ。

自分で豆本を作るようになって、ページの構成が分かるようになったら、このアンカット本を作ってみたくなった。ページを切りながら読み進めていく、なんだか秘密めいた世界があるように思える。

語学(その2)

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昨日の日記に書いた「語学はやり直せる!」と並行して読んでいるのが「わたしの外国語学習法」という文庫。

これもだいぶ前に読んだ本だが、気になったので再読中。この本では「読むことから始めよう」と読書による学習を奨励している。自分の立場もだいたい同じなので、共感がもてる。

必要であれば、話すことや書くことも覚えなければならないが、さしあたり必要なのは本を読むことなので。

この本にこんなことが書いてある。

Man lernt Grammatik aus der Sprache, und nicht Sprache aus der Grammatik.
「言語から文法を学ぶのであって、文法から言語を学ぶのではない」

なるほど、全くその通りだ。

そして、こんなことも。

言語の荘厳なる大寺院は、文法なしで築けるものではありません。語彙なしでもできないように。私たちはただ、自己目的化した≪文法主義≫に反対しているだけです。その無効性は、すでに前世紀の経験によって完全に証明されたはずです。

さて、両極端がわたしたちの前に横たわっています。昔の学校が目的にまでしてしまった、そして現代の学習者が手段としてさえ受け入れたがらない文法です。

真理に導いてくれるのは、その中ほどの道です。それは、自らの体験を通して遅かれ早かれ誰もがたどり着くだろう道です。

確かに文法そのものが目的になってしまってもいけないし、手段として受け入れないというのも問題だ。避けて通れないのは事実だし、文法なんて無視してそのまま覚えろといってしまうのは暴言に等しい。
どう向き合っていくか、どうつきあっていくかはよく考えてみる必要がありそうだ。

語学はやり直せる!

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『語学はやり直せる!』というとても魅力的なタイトルの新書を読んでいる。今年の2月に出たもの。そのときに一度読んでいるので、今回は再読ということになる。

一応語学とは関わりがあるので、この手の本はなるべく読むようにしている。
「語学はクールに」というのがこの本のキーワード。そう、こういう感覚が必要なのだ。どうせやるなら楽しくなくては。

なにを「楽しい」と感じるかは、人それぞれだろうから、みんな違ってもかまわない。
「修行」のような読解も、楽しみのための読書となれば苦にならない。むしろなぜこのような表現を選んだのだろうとか、この表現は使えるとか日本語だったらどう表現するだろうか、などと考えてみる俄然楽しくなる。

この本の中に、こんなことが書いてある。

あるとき、ふと考えた。わたしが外国語を学ぶ価値はどこにあるのだろう。
たとえば、学生時代はロシア語を一生懸命にやってきた。お金も時間もかなり割いてきたつもりだ。それでも、ふつうのロシア人ほどの運用能力を身につけることさえ、この先もどうやら難しい。では、勉強してきたことは無駄なのか。そんなことはないだろう。それでは悲しすぎる。だったら、わたしがロシア人より有利なことは、いったい何なのだろうか。
そうか、日本語ができることなんだ。

まじめに(?)外国語に取り組んで、ある程度できるようになったとしても、所詮ネイティブにはかなわない。そんなときに救いになるのが母語、すなわち日本語なのだ。

その言葉が話される国で生活するなら、運用能力を身につければ十分だ。そうでなくて、語学を仕事と結びつけるのであれば、日本語力が何よりも重要だ。

外国語学習の本などを読むと、「○○語で考える」などと言っているが、その感覚はどうしてもなじめない。読書をするときに、いちいち日本語で考えずに、○○語で理解しろと言われても、そんなに簡単なことではないと思う。むしろいちいち日本語で考えてしまうことの方が多い。変な話だが、韓国語の本を読んでいるときは、日本語を意識するし、日本語の本を読んでいるときは、韓国語を意識する。
つまりこっちの言語に置き換えたらどうなるかを考える。会話の時だって同じ、自分が言いたいことは日本語で考えている。語学力がまだ未熟なせいなのかもしれないが......

でも、この訓練がないと翻訳や通訳といった仕事はできない。
外国語力が未熟でも、日本語で救われている、このことは何よりの励みになる。

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